「なぜ世界があるのか?」:人類史上最大の問い

らばQより。http://labaq.com/archives/51725816.html

宇宙はどんな風に始まったのか。
「神による天地創造だと思うか?」
「あるいはビッグバンだと思うか?」
という2択アンケートが世界各国で行われました。
すると興味深いことに、先進国の中でアメリカだけがユニークな結果となったようです。

アメリカだけが「天地創造」と回答した率が高かった(58%)という記事。


コメントを見ると、<アメリカの大衆はバカ、でもエリートがスゴイから国としてもトップを維持できているんだ>という意見が多い。

これであの宇宙開発能力持ってるんだからワケワカラン・・・

これで科学技術も世界トップなもんだから断絶がすごい。

これだけの信仰があるのに、今の科学技術も持ってるってのが日本人的なオレには不思議というかスゴいなと。

知的格差も大きいんだと思う。最先端の科学もアメリカから出てくる。

現実としてはアメリカに知的格差も科学教育の問題もあるだろう。しかし、それは浅薄な理解だ。それだけでは、宗教と科学の関係やこの問いの思想史上の意義についての無知を自白するようなものだ。
今回はこの人類史上最大の問いについてふれてみたい。

なお、一方でちゃんとしたコメントもあるので紹介しておきたい。

ビッグバンだってさらに突き詰めたら答えになってないと思うけどね。その答えを「信じる」のなら、神も科学もおんなじ。

ビッグバンを選択している人たちは理論の内容をちゃんと理解しているのかね。なんとなくで選んでいるんだったら宗教と変わらんと思うが。

いやー、逆でさ、科学が進歩すればするほど、神の存在を信じるようになるんじゃないの。

1.「なぜ世界があるのか?」という問いには論理的に答えが出ない

コメントの前提には「宗教と科学は対立するものだ」という考え方がありそうだ。例えば

根本的に考え方が違う科学と宗教を並べて二者択一ってのも無理があるよな。

第一に、このコメントは科学が宗教から発達してきたという歴史についての認識のなさを表している。例えば、ニュートンを考えれてみればいい。「なぜ世界があるか」というキリスト教の答えてきた問いにキリスト教徒としてもっとちゃんと答えよう(世界を作った神の存在を証明しよう)というのがニュートンの科学研究の動機だ。後で述べるように人生に対する(ニュートンのような)気合の入った動機は「なぜ世界があるか」「なぜ私がいるのか」という問いに対する信仰から生まれるというのが私の理解。


第二に、天地創造(宗教)だろうがビッグバン(科学)だろうが、論理的にはこの問いに答えられないという点で同じだ。
天地創造に対しては「神が作ったの?じゃあ、神は世界を作る前は何してたの?」あるいは「神を作ったのは誰?」と尋ねることができる。
ビッグバンに対しても「ビッグバンの前はどうだったの?」「なぜビッグバンが起きたの?」と尋ねることができる。
哲学で一般的な無限後退というやつだ。この無限後退は論理的に理解できる。
それは世界(宇宙)というのは<この世のあらゆるすべて>なので、<あらゆるすべて>の外側を想定することができないということだ。例えば、天地創造で<あらゆるすべて>を説明しようとしても<あらゆるすべて>には神を作ったものを含むので神の外側を想定しないといけなくなる。
よって、循環論で答えるしかない。例えば「神を作ったのは神」のように。しかし循環論は普通は答えとは認められない。


以前<科学は永遠に仮説だ>ということを書いたが、もっと極端に科学は究極的には信仰だということもできる。科学は世界を矛盾がないように説明するだけであって、本当にそうなのかは分からないからだ。よって最後は信じるしかない。
ただし「最後は」という条件が付く。最初から無批判に信じるのは間違うだけだ。合理的に科学的に突き詰めて突き詰めていって最後に信じるしかないのだと思う。

2.「気合」「すごさ」は<世界とのつながり>に対する信仰から生まれる

そもそも信じるということがなければ科学研究だろうが何だろうが人生に対する気合の入った動機は確保できないと考えている。
それを神と呼ぶかはともかく、信仰(言い換えると以下で述べる<世界とのつながり>)は人生にどうしても必要なものだと思われる。

私の関心は<世界とのつながり>に対する信仰がない人に対して、どうも長続きしにくい面がある。「すごさ」がないからだ。


例えば、私の好きな哲学者バートランド・ラッセルは、一方で数理的な哲学を押し進め存在論から認識論への転換に重要な役割を果たした人だ。またキリスト教批判で有名な無神論者だった。しかし、ラッセルは自らの哲学的な動機は信仰から生まれたと述べている(『私の哲学の発展』(1959))。
ここでの信仰とは何か。私はそれが<世界とのつながり>と同じことだと思っているが、この<世界とのつながり>が何なのかは「なぜ世界があるか」と似ていて非常に難しい問題だと感じている。簡単にいえば「気合」とか「すごさ」なのだが。例えば、芸術作品でも何でもいいが、何かが「すごい」「気合が入ってる」というのは、私にとっては<世界とのつながり>を感じさせるか、その人が<世界とのつながり>を信仰しているかにかかっている。「すごさ」の裏に常に信仰ありだ。


もう一人フリードリヒ・ニーチェを例に挙げようと思う。彼の著作は文学っぽくて普通の哲学ではない。よって自分には何を言っているのかよく分からないところがある。しかしニーチェキリスト教を批判しつつ「すごさ」を称揚したというのはそんなに特殊な理解ではないだろう。彼の「すごさ」が自分にとっては<世界とのつながり>への信仰だ。ニーチェはこの信仰を非常に重視するので、人間を「すごさ」からどんどん遠ざかるキリスト教を"奴隷の道徳"と呼び攻撃したように私には思える。

3.「なぜ世界があるのか?」という問いは人類史上最大の問いで現在でも常に問題になっている

さて自分が「なぜ世界があるのか?」と訊かれたらどう答えるか。「分からない」としか答えようがないだろう。プラトンアリストテレス以来の人類最高と思われる知性が闘ってきて「分からない」と討ち死にしてきた問いなのだから。

この問いは哲学の主流である存在論*1が、プラトンアリストテレス以来格闘してきて答えが出ず、ハイデガーを最後に20世紀後半からは皆さん諦め気味な問いだ。


しかし、ただ諦めてるだけじゃダメだろう。この問いは単なる思考実験などではなく非常に現実的・実際的な問いだからだ。
例えば、「どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要です」(『デマこいてんじゃねえ!』)というブログ記事は、今の日本の大人は長期的に社会全体のことを考えず、短期的に自分の人生のことしか考えていないからダメだ、と主張しているが、この問題の根本にも上の問いが関係している。詳しく書く余裕はないが、大人が全体のことを考えないのは、近代化(科学が支配する社会と言ってもいい)が<全体とのつながり>を失わせるからだ。古代では宗教が「なぜ世界があるか」に答え、人(社会)と世界をつなげていた(一致させていた)。近代化でそのつながりが切れてきたわけだ。上の記事も科学と宗教の話に言及している。


このような近代化にともなう問題はキリスト教や資本主義についてはマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1905)の最後に出てくる予言的な文などを例に説明されることが多い。日本においては三島由紀夫の予言が例に挙げられることが多い。昭和45年7月7日の産経新聞夕刊が出典。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代わりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

まさに今の日本についてほとんどの日本人が感じている問題ではないだろうか。私は三島はまさに<世界とのつながり>の問題に苦しみ、あのような最後を遂げたと考えている。三島は<世界とのつながり>を確保する手段としてキリスト教の代わりに天皇を持ち出したわけだ。しかし明治政府のときと違ってうまく行かなかった。うまく行かないと分かっててやったとは思うが。

私の哲学の発展 (みすずライブラリー)

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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

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*1:形而上学ともいう。もう一つの主流が認識論。哲学者がこの問いを諦めて以降認識論が主流になった。