ナイアガラの滝に転落した日本人女性:「自業自得」と言ってればいい話か?

現実

日本人女性はどうやら手すりにまたがって写真をとって戻ろうとしたときにバランスを崩して落ちたようだ。
http://www.huffingtonpost.ca/2011/08/17/ayano-tokumasu-niagara-falls-japanese-student-last-moments-camera_n_929003.html
上のハフィントン・ポスト・カナダ版での(たぶんカナダ人の)コメントは主に「かわいそう」というもの。一方、2chでのコメントは「自業自得」というものがある。「DQNの川流れ」ならぬ「DQNの滝流れ」とか。
http://alfalfalfa.com/archives/4196078.html

抽象

この「自業自得」コメントからリベラリズムの問題を考えてみる。
自分は根っからの自由主義者であるバートランド・ラッセルが好きで、自分の立場もリベラリズムだと思っている。ただ、リベラリズムには根本的な問題もあると思う。そもそも、リベラリズムが何かというのもハッキリとは分からない。それに、これから述べるコミュニタリアニズムの批判ももっともだし、功利主義にもかなり分があると思っている。

さらにラッセル自身も単純なリベラルかといえばそうもいえない。ラッセルの名付け親はジョン・スチュアート・ミルであり、その影響はとても大きい。そのミルの『自由論』はリベラリズムの必読文献だ。一方、ミルは経済学者であり、ジェレミーベンサムに次ぐ功利主義者だといえる。さらにミルは『女性の解放』でも有名で、今でいう社会民主主義っぽくもある。ラッセルも目的としての社会主義には賛成すると言っている。
このようにミルの立場も複雑で、その影響を受けたラッセルの立場も複雑で、その影響を受けている自分の立場もまったく割り切った立場ではない。ただ、あくまで基本はリベラリズムだと思っている。なので、このリベラリズムの問題についてはずっと気にかけている。

上の「自業自得」というのは自己決定に基づく結果責任(自己責任)ということだろう。これは(自己決定を基礎とする)リベラリズムは他者への共感(「かわいそう」)を失わせる方向にはたらくということ。
「かわいそうじゃないだろ。だって好きで手すりを越えて写真撮ってたんだから。自業自得だ」
一方、これが次のような場合であれば「かわいそう」となるだろう。
女性は手すりの手前にいたが突然の突風で手すりごと飛ばされ滝に落ちた。
手すりを越えるという自己決定がないから。

この「自己決定→自業自得だ」を裏返して、自己決定できないことを根拠にリベラリズムを擁護したのがジョン・ロールズだ。ロールズリベラリズム擁護は<無知のベール>と呼ばれる思考実験に基づく。この思考実験は<人は自分の生まれる環境・才能は選べない>すなわち自己決定できないことを前提にしている。自己決定できないのだから、人は「自分が悲惨な環境で才能に恵まれず生まれるかもしれない」と考える。すると、人は、そのような「かわいそうな」人に対する再分配を肯定するはずだという議論だ。

以上からリベラリズムの根本である自己決定と共感に基づく連帯が矛盾することがあるといえる。
この点から、自分は次のような疑問をもつ。<リベラルな社会は、自己決定を追求することで社会の基礎になる連帯を自ら取り崩すことになるんじゃないか>

このような疑問は当然、真新しくない。この点からリベラリズム批判をしているのがマイケル・サンデルなどコミュニタリアンだろう。サンデルはその著書『完全な人間を目指さなくてもよい理由』(2007)でエンハンスメントを批判している。エンハンスメントとは治療目的でない医学技術の行使。上の著作では、遺伝子工学などで生まれてくる子どもに「病気にかからないようにする」、「身長が高くなるようにする」といった遺伝子工学に基づく処置を行うことが批判されている。
その批判の根拠は次のようなもの。
エンハンスメントは、ロールズのいう<人は自分の生まれる環境・才能は選べない>という自己決定の不可能性を否定し、他者への共感(連帯)を失わせる。
確かに、先天性の疾患をもっていても、「かわいそうじゃないだろ。だってエンハンスメントしなかったんだから。自業自得だ」となるかもしれない。

このようなコミュニタリアンリベラリズム批判はもっともだと感じる。
ただ、コミュニタリアンも「自分は全体主義じゃない」と言うし、「リベラリズムの権利の解釈が価値中立ではありえない」なんていう批判は当たり前だと思うし、「目的論で考えるべき」というのも法学では常識だ。結局、コミュニタリアニズムリベラリズムを代替するものではなく、リベラリズムに修正をせまる程度のものだと考えている。

もちろん、このリベラリズムの問題は根本的で難しい問題だ。当然、自分の手に余る。なので結局、議論を追っていくくらいしかできないが。

現実と抽象

今回の件については、自分も「自業自得」と思ってしまう。「自業自得」の基準は法学でいう「社会的通念に照らして」判断するしかないのだろう。ただ、「自業自得」に引っかかるのは、ひとつには、上に書いたように<自分の信奉するリベラルデモクラシーと矛盾するんじゃないか>という疑問があること。もうひとつは、「共感が極端に少ないような社会にはあまり住みたくない」という感覚。
信頼と同じく共感も<社会(関係)資本>の一種だろうから。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

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完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

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