日本史授業で韓国:判断の枠組み

現実

J-CASTより。http://www.j-cast.com/2011/08/26105482.html

生徒の2ちゃんねる書き込みで発覚 日本史「ハングル授業」に賛否両論
2011/8/26 17:31
「韓流ごり押し」が問題化するなか、神奈川県立高校の教諭が、日本史の授業でハングルを教えたり、校外学習で関東大震災時の朝鮮人虐殺の現場を計画していたことが明らかになった。県教委は学校に対して、このような授業を行わないように指導したが、この指導に対しても、賛否両論が県教委には寄せられている。
横浜市にある県立高校の地理歴史科の女性教諭が、2010年12月下旬の日本史の授業で、生徒に自分の名刺をハングルで作らせるなどした。さらに、夏休みに行う夏季講習では、「関東大震災時の起きた朝鮮人虐殺の現場」の見学を企画し、参加者を募っていた。2011年8月25日に産経新聞が1面で報じ、問題が表面化した。[…]

抽象

まあ、よくある(昔からある)話だ。ネットの書き込みで発覚というもの最近のパターン。だが、ありがちな分、根本的で解決困難な問題だと思う。法学的には「教育権(子どもの教育内容を決定する権利)は誰にあるか?」といった形で論じられる。ここではリベラリズムの欠点という観点から書いてみる。

大前提としてリベラルな社会は<価値中立>を目指す。「国家はどの価値にも肩入れしない」ということだ。しかし、コミュニタリアンが批判するように、完全な<価値中立>などということはありえない。少なくともリベラルな国家はリベラリズムの信奉する自己決定・容認といった価値に肩入れしている。それを表したのがミルの侵害原理(人は他者の権利を侵害しない限りにおいて自由)だろう。これ自体は当たり前のことで完全な<価値中立>はないという結論でいいと思う。あまり問題はない。

問題は、自己決定・容認といった価値だけでいいのか?ということだ。この問題が表面化するのが教育の分野だろう。自己決定・容認といった価値だけを子どもに教えるのでは社会が維持できないのではないか?ということだ。子どもの頃、このような教育を受けても、大人になって「政治参加しよう」、「公共のためにはたらこう」といったことを自主的に自己決定する人はいるだろう。しかし、少数派だろう。このような自主的に政治参加してくれる人だけで社会が維持できるのか?ということは問題になるだろう。「公共のためにはたらこう」といった態度がもっとも必要な人は政治家や公務員だろう。しかし、今の政治家や官僚を見ていれば、公共性に問題があることに多くの人が同意するだろう。

以上のように、リベラルな社会には、自己の立場(価値中立)を貫くほど、社会自体が取り崩されるおそれがあるという欠点がある。これは以前のエントリで書いた<リベラルな社会は、自己決定を追求することで社会の基礎になる連帯を自ら取り崩す>という欠点とほぼ同じだ。

このような欠点への批判として、例えば、国家主義者は「愛国心教育をすべき」という。また例えば、コミュニタリアン(や共和主義)は「国民の政治参加(自己統治)という美徳を涵養するような教育をすべき」というだろう。具体例では、エミール・デュルケムは<教育とは子どもの社会化あり、教育の内容は国家が決定する>と述べている(『教育と社会学』(1922))。

しかし、このような反リベラルな教育は容易に価値の押し付けにつながる。国家主義者の「非国民」といった言い方が典型的だろう。この価値の押し付けが問題だというのがリベラリズムが<価値中立>を大前提にする理由だ。
コミュニタリアンマイケル・サンデルは「私は価値の押し付けはしない。価値は人びとが議論して、合意して、共有するから」と言う。
このような批判に対してリベラルは、「価値については議論しても結論が出ない。合意できない。だから価値については国家は関与しないんだ」と答える。現実には、例えば、フジテレビデモに関する意見の対立を見ていても、とても議論して合意できるとは思えない。よって、自分はリベラリズムに分があると考える。よって、以前にも書いたように、コミュニタリアニズムリベラリズムを代替するものではなく、リベラリズムに修正をせまる程度のものだと考えている。

しかし、上に述べたリベラルな社会は「政治参加しよう」、「公共のためにはたらこう」といった動機を確保できないため、社会が維持できなくなるおそれがある、という欠点を放置しておくのも問題だ。

結局、社会を維持できる程度の動機付けを確保できるように国家が教育内容に一定の枠をはめて、その枠内で保護者・教師が教育内容を決定するしかない。社会が維持できないというのは、それ以上ないくらいに大きな問題だからだ。教育が完全に<価値中立>でありえないのだから、他にしようがないだろう。日本に生まれた以上、"日本"という価値に沿った教育を受けても<価値の押し付け>としてはそれほど悪質ではないだろうということ。最高裁もこのような立場に立っていると思う。
枠をどこに設けるか。それはいつもの「社会通念に照らして」しかないんじゃないだろうか。答えになっていないが。
先ほどのデュルケムの『教育と社会学』から引用すれば、

教育事業はすべて、ある程度まで国家作用に服するべきものである。[…]いかなる学校でも自由に反社会的教育を授ける権利を要求することはできない。(p.70)

ここまでは賛成できる。しかし、

教育が実現すべき人間は、自然が作ったような人間ではなくて、社会がそうなることを欲するような型の人間である。(p.125)

これは賛成できない、というところ。

抽象と現実

さて、本件のように日本史の授業でハングルを教えるのがこの枠内に含まれるかどうか。自分は国家(文科省)がどのような枠をはめているのか知らないし、この授業がどのようなものかも知らないので判断はできない。ただ上に述べたような枠組みにそって判断すべきではないかと考えている。
現実の授業自体について言えば、そもそもハングルを教えるかどうかという形式的な話よりも生徒に<自分の頭でものを考える>ことを教える本質的な授業になっているのかどうかが問題だろう。校外学習の参加希望者がゼロだったことからも、なっていなかった可能性が高いが。なぜ<自分の頭でものを考える>必要があるのか。当たり前だが、近代社会(リベラルデモクラシーの社会)は<自分の頭でものを考える>市民を前提に成り立っているため。しかし日本人は<自分の頭でものを考える>ことができていないんじゃないか?近代社会が成り立っていないじゃないか?というのは夏目漱石川島武宜丸山眞男や…ありとあらゆる人たちが持っていた疑問で、今も持たれ続けている疑問だろう。

また、日本の戦前教育と戦後教育には日本の文脈に沿った事実関係もあるので上に述べた抽象論だけでは不十分ともいえる。

教育と社会学

教育と社会学