前近代社会と近代社会
昨日のエントリで日本は<自分の頭でものを考える>ことが少ないので近代社会になっていないという問題がずっと論じられてきたと書いた。
以前のエントリで<意味と強度>という視点は現代の社会を考える上で有用だろうと書いた。
またリベラリズム(やそれに対するコミュニタリアンの批判)について繰り返し書いている。
この3つは深くつながっている。このつながりについて自分の考えを非常に大雑把にまとめると以下のようなものだ。
- 前近代…人びとは<自分の頭でものを考える>必要がなかった。他人が<意味>を考えてくれ、それを押付けていた。押付けられた人びとも疑問も持たずに受け入れていた。この"他人"がムラ社会。人びとはムラ社会が提供する<意味>をそのまま受け入れ、つらく退屈な日常でも疑問を持たずに過ごし、たまの祭で<強度>を得ていた。
- 近代…明治以降の「近代化」という政策にしたがい、ムラ社会が崩壊し、<意味>が供給できなくなった。天皇制(国家)・会社・学校といった集団が、代わりに<意味>を供給してきた。この<意味>(例えば「欧米に追いつけ追い越せ」、「いい学校、いい会社」)の供給により、日本は工業化に成功した。しかし、脱工業化とともに<意味>も崩れ、会社や学校の代わりになる集団もなくなった。「近代化」自体が<自分の頭でものを考える>市民というフィクションのもとに成り立つものだが、今に至って本当に<自分の頭でものを考える>必要が出てきた。それぞれ考え方(意味)の違う人びとが、互いの違いを認めて、社会を成り立たせることが求められるため。しかし、日本の教育は工業化時代の教育から変わっていない。工業化時代の教育は<自分の頭でものを考えない>人間を育てる教育。なぜなら、工業化社会はつらく退屈な日常でも、学校・会社の言う通りに疑問を持たず勉強し、働く人間が必要だから。政府は「ゆとり教育」で工業化時代の教育から脱出しようとしたが、失敗した。<意味>を失った人びとは<強度>を求める行動を繰り返すようになる。
- リベラリズム…前近代の<意味>の押付けを批判し、「人びとが(他人の自由を侵害しない限り)自由に考え、自由に行動できるような社会」を目指す動きの中で生まれた。よって、リベラリズムは近代社会=<自分の頭でものを考える>考え方の違う人びとで成り立つ社会を当然の前提にしている。なお、コミュニタリアンは「<意味>の押付けといっても、人びとが所属する集団(の<意味>)から完全に自由であるということはあり得ない」とリベラリズムを批判する。「むしろ所属する集団(の<意味>)にしたがった方がよい」と主張する。