牛乳を拒否した児童たちに、教師「お前たちは本物の福島県民ではない」:想像の福島県民

現実

2ちゃんまとめサイトより。http://alfalfalfa.com/archives/4609017.html
参院予算委員会公明党松あきら氏が次のように発言。
「福島の小学校で牛乳を拒否した児童を全員並べ、教師がバケツに牛乳を流し入れながら、お前たちは本物の福島県民ではない、と言い放ったそうです。こんな戦前のような事が…官房長官、笑いながら聞かないで下さい」
youtubeに動画がある(ここ)。

現実と抽象

福島県の教師が牛乳を飲まない子どもに「お前たちは本物の福島県民ではない」と言ったそうだ。学校給食関連では粗食給食というニュースを取り上げたことがある(ここ)。これは広島の小学校で福島の子どもの苦労を考えさせるため、給食の主菜を抜いたというニュースだった。自分はこの粗食給食を「被災地の子どもと同じ苦労をしなければならない」という目的(価値観)の押し付けであり全体主義だ、と批判した。本件もこの粗食給食のケースとほぼ共通している。なぜ子どもは「本物の福島県民は福島産の牛乳を飲まなければならない」というクソ教師の下らない価値観を押し付けられなければならないのか。こういう全体主義は本当に腹が立つ。


なぜ「本物の福島県民は福島産の牛乳を飲まなければならない」という価値観が下らないのか。それはこの教師のいう「本物の福島県民」は現実の<世界>にも<社会>にも存在しないからだ。この教師のいう「本物の福島県民」は空集合だ。なぜこう言えるか。ベネディクト・アンダーソンによる「想像の共同体」論があるように、国民というのは想像上のもの(幻想)である。よって福島県民も幻想であり<世界>には実在しない<世界>に実在するのは福島県で生活する一人ひとりの個人(本件では牛乳を残した子ども)だけだ。

しかし<世界>には実在しない福島県民も<社会>には存在する。それは住民基本台帳制度(要は住民票)によって作られた約束(「福島県はあなたを県民として登録します」)として存在する。よって「福島県民として登録された者は福島産の牛乳を飲まなければならない」という命題は<社会>的には成り立ち得る。

しかしこの教師の「本物の福島県民」はこの教師の頭の中にしか"存在"しない。この教師の単なる妄想だ。よって現実の<世界>に実在する人が「本物の福島県民」に含まれるかは判断できない。この教師が妄想に基づいて判断するだけだろう。判断基準の一つが県内産の牛乳を飲むことのようだ。人はそれぞれ自分の妄想を抱えて生きていると思われるので、妄想を抱くのは勝手だが、それを他人に押し付けるのは許されない(憲法が妄想の押し付けを禁じていることについて過去のエントリ参照)。さらにこの教師の妄想は牛乳の汚染が懸念されている現状を考えれば、現実との乖離が大きい。現実と整合性のない幻想は問題を起こす。例えば、戦時中の日本の精神論。


教師が現実の<世界>に実在する子どもより<社会>の約束を重視すること自体が問題だ。本件は実在する子どもより教師個人の妄想を重視しているので、更に問題だ。松あきら氏は戦時中の非国民と対比しているが、戦時中はまだ<社会>の約束という要素があった。例えば国家総動員体制も国家総動員法に基づいている。しかし本件ではそのような<社会>の約束もなく、あるのは教師個人の妄想だけだ。この観点からは本件は戦時中より問題だ。


原発関連の議論はあふれかえっているが、あちこちの議論で「想像の福島県」が跋扈しているような気がする。何が<世界>に実在するのか、何が<社会>に約束として存在するのか、何が個人の妄想なのか、を分けることは常に必要だと思う。