インド、女児殺しの習慣:カルチュラルプルーラリズム(文化多元主義)、マルチカルチュラリズム(多文化主義)とは何か?

AFP通信より。
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2856993/8439008

インド、女児殺しの慣習による危機
2012年02月11日 11:11
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 デブダ(Devda)村やその近隣に暮らすほぼ全員が、古くから続く女児殺しの存在を知っている。インド社会の大半が急速な経済成長と社会の変化をくぐり抜けている一方で、今も残っている慣習による罪だ。パドマちゃんはインドの極端な男子びいきによる犠牲の象徴といえる。

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 2人の男の子の父親であるデブダ村の農民、ラジャン・シンさんは「このあたりでは、男の子が生まれれば大喜びだが、女の子だと悲しむんだ」と語る。そして女児が生まれた場合、多くは24時間以内に殺してしまうのだという。手を下すのは母親か、お産を手伝った女性だと言う。「アヘンを使うか、砂やマスタードの種を詰めた小さな袋を赤ん坊の顔に押し付けるんだと聞く。娘だとお乳をやらないで飢え死にさせる母親も多いそうだ」

 地元の歴史家たちによると、この地域の女児殺しの由来は、何世代も前にラジプート・ヒンズー(Rajput Hindu)の一族が、侵略してきたイスラム教徒と戦争になった際、侵略者による強姦から自分たちの娘を守るために長老たちが決断した「究極の選択」に由来すると言う。

 しかし平和になってもこの慣習は続いた。社会歴史学者のウマシャンカール・チャギ(Umashankar Tyagi)氏は「持参金の負担や無学、貧困などが、最近になってからの女児殺しの理由だ」と説明する。長老らによると、過去100年の間で、デブダ村で結婚した村出身の女性は2人だけだ。

 この状況はインド全体の危機を反映している。英医学専門誌「ランセット(The Lancet)」によると、インドでは毎年約50万人もの女児が中絶されている。その理由は結婚の際に、違法ながら父親が花嫁に持たせなければいけないとされている巨額の持参金や、男子は一家の稼ぎ手とみなされる一方で女子は経済的な重荷とみなされていること、ヒンズー教の儀式にまつわるものまで様々だ。

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 2人の娘のビムラ・デビ・バッティさんは「女の子が男性の先生に口をきくのは良くないと思うので、娘たちは学校にやっていない」と言う。娘が結婚する時には「金に銀に現金、食器からベッド、テレビ、エアコン、衣料品までを花婿の家族に贈り、村をあげての3日連続の結婚式もやらなければならない」ため、「娘が生まれた時から持参金を貯金しているし、結婚させるために土地も売らないといけないかもしれない」

 2011年の調査でインド全体の子どもの男女比は、男子1000人対女子914人だったが、ジャイサルメール地区では男子1000人対女子868人だった。

 ラジャスタン州では女児殺しをなくそうと、女児が生まれた家庭に銀行口座を開き、そこに州政府が2万5000ルピー(約4万円)を預金する提案がされている。女の子が18歳になった時にその預金を家族に贈呈する仕組みで、女児の命を救おうという取り組みだ。しかし、この奨励策はまだ開始されていない。

 インドの近代化が、これから誕生する女の子たちに明るい未来をもたらすという希望も抱きすぎるわけにはいかない。超音波や血液検査など技術の進化で、出産前に安価に性別検査ができるようになっていることから、都市部郊外の中流層では、女児の中絶が増えてさえいる。(c)AFP/Rupam Jain Nair

現実

インドの一部の地域では女児殺しの習慣が今も残っているという。理由は娘の結婚持参金が多額で経済的負担だと考えられているからだという。

抽象

今回はカルチュラルプルーラリズム(文化多元主義)とマルチカルチュラリズム(多文化主義)の問題を取り上げたい*1
カルチュラルプルーラリズムとは何か。近代(要は人権などリベラルデモクラシー)の枠内で文化の多様性を認める立場*2
マルチカルチュラリズムとは何か。近代の枠にとらわれずに文化の多様性を認める立場*3

抽象と現実

自分は基本的に<近代は重要だ>という考えなのでカルチュラルプルーラリズムの立場をとる。
よってインドの女児殺しは習慣だからといって認めるべきではないと考える。
具体的には、インド政府(や住民)が習慣をなくすよう努めるべきだし、インド政府(や住民)が「これは自分たちの文化だから守る!口出しするな!」と言われても国際法の枠内で日本(や他の国)が干渉してなくすべきだと考える。これがカルチュラルプルーラリズムの立場をとるということだ。


一方、「インドにはインドの文化がある。欧米中心の近代なんていうものは複数ある文化の一つに過ぎないんだ。だから口を出すのはやめよう」というのが、マルチカルチュラリズムの立場の主張になる。
例えば『キュレーションの時代』(2011)で佐々木俊尚氏はこう書いている。

民主主義という政治体制。友愛、平等といった理念。こういう普遍主義は、しょせんはヨーロッパの普遍に過ぎません。イスラムの普遍やアジアの普遍が、ヨーロッパの普遍と同じであるとはかぎらない。(p.269)

ここに「人権」はないが人権だけはヨーロッパだけでなくイスラムにもアジアにも適用されると例外的に考えるのだろうか。さらにここに書いてある「平等」も男女平等と考えれば、インドには男女平等は適用されないので女児殺しは問題ないとなるのだろうか。
もう一つ例を出そう。 小林正弥『日本版熱血教室 サンデルにならって正義を考えよう』(2011)という本は、小林氏が千葉大で行っているマイケル・サンデルを真似た対話型講義を紹介している。その中での学生の発言。

カニバリズム(人肉食)を認める文化は実際に存在しているので、その文化を尊重するという視点も大事なのではないか、と思います。(p.32)

先日、筑波大の大学生のことを前近代人と批判したが、今度は千葉大生か。「カニバリズムを尊重するって本気なの?」と訊きたくなる*4


つまり、自分が問題にしたいのは次のような点だ。口ではマルチカルチュラリストのようなことを言って「オレって欧米文化に洗脳されてなくってアジア・アフリカにも配慮できていてモノ分りがいいオトナなんだよね」みたいな甘い考えをしている人に「この記事を読んでもそんな甘いこと言ってられるの?」と訊きたいということだ。自分はそんなこと言えないのでカルチュラルプルーラリストなわけだ。


近代は確かに特殊ヨーロッパ的・特殊ユダヤキリスト教的な思想だろう。しかし人権や自由主義・民主主義のような近代思想はこの事例を見れば分かるようにかなり普遍的な思想だ。だからこそ科学とともに近代=ヨーロッパが世界を制覇したわけで、その事実は事実としてまず認める必要がある。それだけ歴史の重みもあるということだ。独自の文化だなんだ言うのは、まずは近代の重みを理解した上での話だというのが個人的な意見だ。


ということで今回も結論は"日本の近代化はかなえられそうもない"。今後も日本は(合理主義も含め)普遍性のなさが仇となってグローバル経済の時代に取り残されて落ちぶれていくんでしょう。

*1:この記事はもうひとつ伝統主義(マックス・ウェーバーのいう永遠の昨日)という問題があるが、それはまた別の機会に。

*2:wikipediaによれば、文化多元主義は、公的領域において近代イデオロギーを共有することをあくまで前提とし、文化の複数性はあくまで私的領域で発揮される場合においてののみ寛容であろうとする限定性が与えられているイデオロギーである。

*3:wikipediaによれば、多文化主義とは、異なる文化を持つ集団が存在する社会において、それぞれの集団が「対等な立場で」扱われるべきだという考え方または政策である。

*4:またこういう学生に限って「自分は文化を尊重するのでコミュニタリアンです」とかマヌケなことを言い出したりする。この意味ではサンデルブームは有害だったといえるだろう。