猫ひろしのマラソン・カンボジア代表としてのオリンピック出場はなぜ応援されないのか?

2ちゃんまとめサイトより。
http://kanasoku.blog82.fc2.com/blog-entry-21934.html
元の記事は週刊ポスト
http://www.news-postseven.com/archives/20120213_87642.html

カンボジア人記者「猫ひろしに代表になって欲しい人いない」
2012.02.13 07:00
「感謝感激、カンボジア〜ン」――。別府大分国際マラソンで自己記録を7分あまり縮める2時間30分26秒を叩き出した猫ひろし(34)は大はしゃぎだった。カンボジア帰化してまで狙うロンドン五輪出場。「あとは3月の発表を待つだけ。6月にプノンペンハーフマラソンを走り、五輪でのマラソンに向けて調整予定です」(猫の関係者)カンボジア五輪委員会が設けていた「2時間31分前後」のハードルを超えたため、猫ひろしの周囲でも内定ムードが漂う。

だが、五輪委員会がレース後に、「五輪代表には2時間25分程度の記録を期待しています」と突如、ハードルを上げるような発言をしたのは気になるところだ。

一体、どういう意図があったのか。プノンペンカンボジア五輪委員会に取材をすると、「猫ひろしさんが記録を更新したのは知っています。基準を2時間31分から25分に変えたのは事実ですが、まだ誰が走るかはっきり決まったわけではなく、3月に開かれる会議でじっくり検討します。猫ひろしさんには走る資格はあります。全く問題はありません」(広報部)と、あくまでもまだ何も決まっていないと強調した。

だが、カンボジア最大の英字紙『プノンペンポスト』のスポーツ記者の見方は非常に厳しい。「猫ひろしさんはこの半年、こちらでもかなり話題になっています。しかし、カンボジア人は誰も、彼に『カンボジア代表になってほしい』とは思っていません。
ライバルといわれているヘム・ブンティン選手は北京五輪にも出場し、カンボジアでは英雄として尊敬されています。たとえ猫さんがブンティン選手の記録を塗り替えても、所詮は日本人です。五輪委員会はそうした世論を感じて、猫さんが五輪に出場できないように仕掛けているんですよ」

しかも、猫ひろしが狙うのは、カンボジアの選手が国際陸連が設定した五輪参加標準記録B(マラソンでは2時間18分0秒)をどの陸上種目でも破れなかった場合に、男女一人ずつ、いずれかの種目で出場できるという特例枠。

猫ひろしが出場すれば、他のカンボジアの男子陸上選手は誰も出場できなくなる。こうした事情を知れば、カンボジアの五輪委員会が急にハードルを上げたのも納得できる。


私の答えは簡単で<全体とのつながり>の信仰がないからだ。<全体とのつながり>の信仰とは何か。それが自分でも何だか分からないのでこの記事のような具体例を題材に考えている。


この場合、オリンピック出場という目的のためにカンボジアという一国を手段に使おうという猫ひろし目的合理主義が嫌われていると言えるだろう。しかも、カンボジアというアジアでもかなり後ろの方の途上国をアジアの中でも先頭の方の日本が利用するという構図が醜い。猫ひろしが実力のないカンボジアへの救済として与えられる特別枠を狙っているというのも目的合理的過ぎて醜い。イマヌエル・カントは「他人を手段にするな」と言ってるが、この場合は人どころじゃなく国だからね。
手段を目的合理的に使うこと自体は近代人として当然だけど、猫ひろしの目的が「お前がオリンピックに出たいだけだろ」と突っ込まれたらそれで終わりっていう程度のものという感じがするのが問題だ。そこで何か<全体とのつながり>への信仰を感じさせる目的を答えられないと。


走るのが好きならいくらでもそこらへんを走っていればいいわけだし、「オリンピックに出たい」っていう理由がどうも<社会>的過ぎて<超越>的じゃないんだよな。「私は走るのが好きで好きで走ってたら、いつの間にかオリンピックに出てました」みたいなのがオリンピック選手の理念型だろう。これなら<超越>的。


この事例は合理主義は<全体性>と矛盾することがあるという例だが、裏返せば「<全体性>はたいてい非合理だよな」とも思う。だから自分は「信仰」と呼んでいる。
やはり猫ひろしには非合理さが足りないのかもしれない。自分は猫ひろしよりもホリエモン橋下徹氏に<全体とのつながり>への信仰を感じるが、それは彼らの(過剰な合理性ゆえの)非合理さに原因があるのかもしれない。


2ちゃんでも上で指摘したような理解は共有されているようだ。

3 :名無しさん@恐縮です:2012/02/13(月) 17:23:56.24 id:gI34m9+A0
猫のやってることって誰に対してもリスペクトしてないから
こうなるんだよな

リスペクトというのが自分の言葉では<全体性>への信仰に当たる。

6 :名無しさん@恐縮です:2012/02/13(月) 17:25:28.18 ID:8FjOgPPz0
国の代表というものが
何を背負っているのか
こいつはわかっていない


42 :名無しさん@恐縮です:2012/02/13(月) 17:35:39.59 id:sSFnEY1k0
>>6
んだな
たとえ外人でも、住んでる場所を大切にする気持ちがあるなら
歓迎されるだろうに

国の代表=国を背負うということで、国を背負う=大切にするという理解だろう。
ネトウヨという言葉があるが、<全体とのつながり>への信仰という面では右翼思想も為にはなることもあることを示す例になりそうだ。
「<全体とのつながり>への信仰を教育によって子どもに埋め込もう」となってくると左翼が反対して段々ややこしくなってくるが。