東日本大震災1年 追悼式で1200人黙祷:「祈り」とは何か?神頼みではない

朝日新聞より。
http://www.asahi.com/national/update/0311/TKY201203110143.html

東日本大震災1年 追悼式で1200人黙祷
2012年3月11日20時35分


政府主催の「東日本大震災1周年追悼式」が11日午後、東京都千代田区国立劇場であり、天皇、皇后両陛下、野田佳彦首相、各地で被災した遺族代表ら国内外の約1200人が出席した。地震発生から1年の午後2時46分に全員で黙祷(もくとう)。首相の式辞に続き、天皇陛下が「おことば」を述べた。


 天皇陛下は「被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう期待しています」と述べた。野田首相は「被災地の復興を一日も早く成し遂げる」としたうえで、原発事故が起きた福島県について「必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くす」と話した。


 宮内庁によると、2月に冠動脈バイパス手術を受けた天皇陛下は追悼式への出席を強く望み、今月7日には胸の水を抜く治療を受けて式に臨んだ。陛下の体調に配慮して、出席時間は当初予定の半分の約20分に短縮された。

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3.11一周年式典についての記事。前回のエントリtwitterでの黙祷について書いた。黙祷は「黙る」と祈祷の祷(「祈」と同じように読む)で「祈る」から成るので「黙って祈る」という意味だろう。「黙る」は明確だが「祈る」は何を指すやらハッキリしない。ただ「祈り」は本ブログで重視している<全体性>と関係することは間違いなさそうだ。
そこで今回は「祈りとは何ぞや」ということについて書いてみる。

1.内田樹氏による「祈り」解説

普段、このブログでは「"文学者"はダメだなぁ」と人文系学者をバカにすることが多いが「祈り」に関しては未だ科学の手の及ばない"人文系ニッチ"だと言えそうだ。そこで普段からその著書を読んでいる内田樹氏に登場願い、同氏による「祈り」の解説を聞いてみよう(内田樹名越康文、橋口いくよ『原発と祈り』(2011))。

内田 祈るっていうのは、この世界の上にある種の統一原理というか、超越的な意思というか、この世界全体に意味と秩序をもたらしている「何か」が存在するということを前提にしていって、その「何か」まで一回擬似的に自分を上げていくわけでしょう。グラウンドレベルにあってものを見ているんじゃなくて、すーっと意識が上がっていって、祈っている自分と、自分は誰のために祈っているのか、っていう全体を、ある種、上空から一望俯瞰する。(p.63)

この解説は納得がいくものがある。この中の「何か」は当然、神=<全体性>ということだろう。


内田氏によれば「祈り」とは自分の意識を自分という低いレベルから<全体性>という高いレベルまで引き上げることのようだ。こう考えると「被災者に対し祈る」というのは<被災者を含めた全体性を意識する>ということではないだろうか。
なんとなく分かった気もするがよく分からない気もする。「祈り」は言葉で説明しにくいから"人文系ニッチ"として生き残っているのだろう。

2.「祈り」と宗教

「祈り」は当たり前だが宗教的な概念だ。特定の宗教に対して信仰のある人であれば「祈り」=<全体性>の意識ということが実感できるのかもしれない。しかし、日本人で特定の宗教をもっている人は少ない。どうもこの日本人が典型的な宗教に対する信仰をもたないことと<全体とのつながり>を感じられないことが互いに関係しているような気がしてならない。twitterで黙祷って言っても、「祈り」=<全体性>の意識ってことをどれだけの日本人が実感として理解できているんだろうか。


自分も特定の宗教に対する信仰はもっていない。なので今のところ宗教の面から「祈り」ということは実感できそうもない。例えば、自分は初詣で神頼みをすることがあるが、この行為は<全体性>の意識とは真逆といえる*1。神頼みは内田氏の引用でいうところの「グラウンドレベル」だ。自分の場合はどちらかというと前回のエントリで書いたような政治や社会の面から被災者のことを考える方が<全体性>の意識に近づけるような気がする。以前にも書いたが、社会に対するおせっかいは<全体性>の意識につながるものがあると考えているので。

*1:初詣で世界平和を祈る人もいるかもしれないが。