「3.11は1分間つぶやき自粛」 ツイッターで「黙とう呼びかけ」→「黙祷なう」:大震災の意味と強度

J-castより。
http://www.j-cast.com/2012/03/09125020.html

「3.11は1分間つぶやき自粛」 ツイッターで「黙とう呼びかけ」に賛否両論
2012/3/ 9 18:25
東日本大震災の発生から1年をむかえる2012年3月11日14時46分から1分間、ツイッターで黙とうを――こんな動きが広がっている。
[・・・]
3月4日の夜、あるツイッターユーザーがこんなツイートを投稿した。


 「皆さん、もうすぐ東日本大震災から一年が経とうとしてます。そこで来週の3.11の2時46分から一分間は黙祷としてなるべくツイートしないようにしませんか?自分の勝手な考えですが、協力してくれる方はRTお願いします」


これに同意した人が拡散させ、3月9日現在1500回近くリツイートされている。ツイートした人には「いいよー!協力する!いい考えですね!」「すごく素敵な提案だと思います。その黙祷、陰ながら賛同させていただきます」「自分は被災地に住んでいるので辛かった事とかも沢山あったし、まだまだ課題も残されています。だからせめて、黙祷せずともあの日を思い出してくれればと思います!」などのコメントが寄せられており、11日のツイッター上の黙とうは実施されそうだ。

一方、2ちゃんねるではこのツイートが紹介されると、


 「意味分からん」「きもちわりー どうせ黙祷なんかせずに呟いてる人がいないかどうかリロードしまくってチェックするんだろ んで、1分間過ぎたら不謹慎だなんだって叩きまくる」
 「こういうことする奴って一体感が欲しいだけで被害にあって亡くなった人に対する思いとかはほとんどないんやろな」「ツイートしないことが黙祷のかわりになるって考えるのはまさにバカ丸出し」


などと批判する書き込みが相次いで投稿された。
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twitter検索してみると「黙祷しましょう」を馬鹿にして「黙祷なう」とつぶやいている人が大勢いる。

ツイートし忘れた。黙祷なう。

もっもっもっも黙祷なう

黙祷なうwww黙祷なうwww黙祷なうwww黙祷なうwww黙祷なうwww黙祷なうwww黙祷なうwww黙祷なうwww

これを「不謹慎だ」って怒ってる人も当然のようにいて「平和ボケ日本は今日も平常運転」という感じだ。


今回はこの記事をいつもの<意味と強度>の枠組みで解釈してみる。そして大震災自体にもこの枠組みを当てはめてみる。

1.<強度>

以前twitterなどの炎上は<強度>を求める行動と書いたが、この黙祷も同じく<強度>を求める行動と解釈できる。<強度>を求める行動とは

  1. 「それ自体が目的」「意味がない」
  2. 高揚感・一体感がある

ような行動をいう。


twitterで黙祷を呼びかけてる人たちは、twitterでつぶやかないこと(≠黙祷)自体が目的で、被災地の人の現実の生活どうこうはあまり考えていなそうだ。そして呼びかけ人は一体感を求めていると当然に予想できる。自分のこの考えは記事にある次のコメントに近い。

こういうことする奴って一体感が欲しいだけで被害にあって亡くなった人に対する思いとかはほとんどないんやろな

一方で「黙祷なう」と茶化している人たちも「意味がない」行動を「それ自体を目的」にある種の炎上のようなものとしてやってるんだろうから、やはり<強度>を求める行動といえるだろう。
このような行動は理に適っている。後期近代に入り<意味>が供給不足になった日本社会では人びとが<意味>に代えて<強度>を求めるようになるのは当然だ。
ここで<意味>というのは「そんなことして何の意味があるの?」「意味ないじゃん」と言う時の「意味」のこと。「○○があれば…で幸せ」という言い方が「意味がある」の典型になる。今の日本において<意味>は供給不足だ。例えば「いい学校→いい会社→いい人生」といった<意味>が実は信用できない<幻想>に過ぎなかった、とバレてきているため。学歴幻想だけでなく恋愛幻想や結婚幻想なんかも同じだろう。これが「若者の○○離れ」の根本的な原因だと前に書いた(「『若者の○○離れ』の本質は何か?」)。


twitterでつぶやきを止めても(≠黙祷)、それを茶化しても、基本的には他者に危害を加えないので(危害原理を侵さないので)これで<強度>が得られるなら全然オッケーだろう。言ってしまえばガス抜き


ということで、この記事に関しては問題なし。問題があるはいつもの<意味>不足だ。

2.<意味>

東日本大震災については個人的に「被災地の復旧→震災前の元の幸せ」という<意味>が広がるのを懸念する。上に書いたように<意味>は品不足だ。そんな中、大震災は格好の<意味>のソース(源)だ。例えば、マスコミなどは「被災地の復旧→震災前の元の幸せ」という<意味>に飛びつきやすいだろう。ここで「復旧」とは被災地を元に戻すという意味。
この「復旧」が問題だ。阪神淡路大震災の際にも元に戻す復旧をやって失敗したということを神戸港について水産学者の勝川俊雄氏(三重大)が、街づくりについて神戸在住大塚英志氏が書いていたりする。あと高橋洋一氏や小松正之氏も(高橋洋一『この経済政策が日本を殺す』小松正之『海は誰のものか』)。


橋本治氏もこう書いている(養老孟司ほか『復興の精神』 )。

復興に要する資金をいくら投入しても、ペイするか分からない地域の復興なのだ。(p.166)


彼らが一様に主張するのは「元に戻す復旧ではなく、新しく作り直すという復興をすべき」ということだ。ただでさえ日本の政治過程はおなじみの地方土建業利権分配政治で復旧まっしぐらなのに、人びとも「被災地の復旧→震災前の元の幸せ」という<幻想>にのっかってしまうと、衰退するだけのものを作るだけになるのではないかと懸念する。少なくとも神戸港奥尻島ではこの懸念が現実のものになったと言えるだろう。
なんとか人びとが復旧<幻想>の誘惑を押しとどめ、合理的に復興という<意味>を立ち上げられれば、日本社会もマシになる可能性だってあるだろう。例えば、ノルウェーのような成功したモデルを取り入れた新しい漁業を三陸で立ち上げるとか。言い換えると「新しい漁業で復興→震災前とは違う幸せ」という<幻想>を広めるということ。このような<意味>の立ち上げこそが平和ボケしていない近代人なら普通はやるはずのことだろう。だってそれが合理的じゃないですか。
しかし、現実はまったくそっちの方向に進んでなさそうなところが恐ろしい。復旧<幻想>の引力が強いのだろう。元に戻すだけなら頭使わないし


これだけの未曾有の環境変化があっても現状維持するなんて日本社会の慣性ってスゴいですね(棒)。

【関連エントリ】

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復興の精神 (新潮新書 422)

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