東電賠償請求書に経産相「あぜん」:取引コスト・官僚制・トレードオフ

現実と抽象

この事例は契約の不完備性にともなう取引費用の典型的な事例という印象を受ける。あとは東電の官僚体質が繁文縟礼*1につながっているのだろう。これは<官僚制の特徴である文書主義が煩雑な手続につながる>というマックス・ウェーバーの議論から。


ノーベル経済学賞受賞者のロナルド・コース(シカゴ大)は<取引費用がなければ、事業者が公害の賠償をしても、周辺住民が事業者に補償金を払い公害を止めさせても、どっちにしろパレート効率的*2な資源配分が達成される>といった議論をした。コースの定理と呼ばれる。しかし、この記事の事例を見ても現実は取引費用が大きそうだ。だからといってコースの定理がダメなわけでは勿論ない。むしろコースの真意は取引費用の存在を示すことだったとも言われる(小島寛之『エコロジストのための経済学』(2006))。またコースの定理はカラブレイジの最安価損害回避者の理論とともに「法と経済学」の嚆矢でもある(小林秀之=神田秀樹『「法と経済学」入門』(1986))。その点でも重要。


さて、取引費用を削減するにはどうしたらいいか。自分が思いつくのは、東電を国有化して、政治主導で賠償金を決定しまうことだ。現実には難しいだろうが。ただ、この方法は取引費用は削減できても、具体的妥当性(各被害者に適した額を賠償する)を満たすとは限らない。
これは効率性と具体的妥当性のトレードオフだ。経済学では一の財と他の財のトレードオフを議論するのが一般的だろう。だから効率性と具体的妥当性のトレードオフというのは経済学には合わないかもしれない。ただし法学においては効率性に似た法的安定性と具体的妥当性トレードオフはすごく典型的な状況だ。
いずれにせよトレードオフは、自分の理解では経済学の概念の中でも(数え方しだいだが)ベスト3に入るくらい重要な概念だ。グレゴリー・マンキュー(ハーバード大)の(世界一)有名な経済学の教科書でも「経済学の十大原理」のトップに位置づけられている。アクター(個人・組織など)が直面するトレードオフ的状況の中で最適な配分を探るというのがミクロ経済学の基本だろう。枝野氏の改善要求でよりよい配分が達成されるといいのだが。


マンキューの教科書はいろいろあるが『マンキュー入門経済学』はそのうち入門部分を集めてまとめたもの。前提知識なしで読める。世の中にあふれている下手な経済本を何冊も読むより本書を1冊読む方がよっぽどためになる。と思う。例えば、トレードオフの概念だけでも理解していれば、現実の多くの事例を経済学的に解釈できるだろう。

現実

読売新聞より。http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110920-OYT1T00979.htm

東電賠償請求書に経産相「あぜん」、改善要求へ
枝野経済産業相は20日、東京電力福島第一原子力発電所事故の賠償請求手続きについて、「分厚い書類でひんしゅくをかっている。私もあぜんとした。東電を厳しく指導したい」と述べ、東電に請求方法の改善を求める考えを示した。福島復興の要望で経産省を訪れた東北経済連合会の高橋宏明会長との会談で述べた。
 東電は今月、被害者向けに請求書類一式を発送し、社員による説明会も始めた。ただ、東電の賠償請求書は60ページで、記入方法を説明した「補償金ご請求のご案内」は156ページに及ぶ。過去の給与明細やホテルの領収書などの添付も必要で、請求書以外にも「同意書」などの必要書類が複数ある。専門用語も多く、高齢者などから戸惑いや不満の声があがっている。
(2011年9月20日18時47分 読売新聞)

マンキュー入門経済学

マンキュー入門経済学

エコロジストのための経済学

エコロジストのための経済学

「法と経済学」入門

「法と経済学」入門

*1:wikipediaによれば、規則が細かすぎ、煩雑な手続きが多く、非常に非能率的な状況をいう。

*2:wikipediaによれば、誰かの効用(満足度)を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態をいう。