リベラリズム&意味と強度

このエントリの続き。そこではリベラリズムと正義=公正=法の関係について書いた。今回はリベラリズムとこのブログのもう一つのテーマ<意味と強度>の関係について書いてみたい。


まず以前のエントリの復習。リベラリズムは個人を尊重する社会、すなわち<人びとが自分の(価値観)を実現するため自由に行動できるような社会>を目指すものだった。ここでの社会は<自分の頭でものを考える人びとが共生する>ような近代社会である。憲法はこのような価値観の異なる人びとが社会で共生するためのルールであった。


以上のような考えかた自体は一般的だ。日本の憲法も採用しているし、リベラリズムの古典といわれるジョン・スチュアート・ミル『自由論』などにも書かれている。ミルは次のように個人の尊重の素晴らしさを説く。以下、引用は『自由論』(光文社,2006)より。

人間が高貴で美しいといえる人物になるのは、個性的な性格をすべてなくして画一的になることによってではない。他人の権利と利益をおかしてはならないという条件のもとで、個性的な性格を育て際立たせることによってである。そして人間の行うことはすべて、それを行う人の性格を反映するので、個性を育てていくことによって人間の生活は豊かになり、多様になり、活発になり、[…]人類がはるかにすばらしいものになる。(p.141)

「個性を育てれば、人類がすばらしいものになる」とまで言っている。じゃあ、個性を育てればいいんですね。めでたしめでたし。あーよかった。
…とは全然行かない!現実を見てみれば一目瞭然だ。


以前にも書いたように、日本人は<自分の頭でものを考える>ことができていないんじゃないか?近代社会が成り立っていないじゃないか?という疑問は夏目漱石川島武宜丸山眞男や…ありとあらゆる人たちが持っていた疑問で、今も例えば橋本治氏などに持たれ続けている疑問だろう。
そして<自分の頭でものを考えない>人びとは<自分の目的(価値観)を実現するため自由に行動する>ことはできない。自分の目的(価値観)が分からないし、目的を実現するための行動も分からないからだ。よって今の日本社会で個性云々なんて絵空事だ。

ミルも「個性を育てれば全部OK」とは思っていない

自分の生活の計画を自分で選ぶのではなく、世間や、身近な人たちに選んでもらっている人は、猿のような物真似の能力以外に、何の能力も必要としない。自分の計画を自分で選ぶ人は、能力のすべてを使う。現実をみるために観察力を使い、将来を予想するために推理力と判断力を使い、決定をくだすために識別能力を使う必要があるし、決定をくだした後にも考え抜いた決定を守るために意志の強さと自制心を発揮する必要がある。(p.133)

やはり<自分の目的(価値観)を実現するため自由に行動する>前提として<自分の頭でものを考える>必要があると述べている。


じゃあ<自分の頭でものを考えない>人びとには目的(価値観)は無いのか?というとそうではないだろう。前近代社会と同じく他人(社会)が目的を与えてくれるのだろう。ミルもこう述べている。

[人びとは]習慣になっているもの以外には自分の好みを思いつけなくなっているのである。(p.138)

ここで好み=目的(価値観)にはこのブログで<意味>と呼んでいるものが含まれる。例えばミルの時代のイギリス人にとってはキリスト教。高度成長期の日本人にとっては「欧米に追いつけ追い越せ」、「いい学校、いい会社」。


しかし、脱工業化にともない社会からの<意味>の供給がしぼんできた(以前のエントリ参照)。そこで人びとは<意味>不足を補うかのように<強度>を求める行動をとるようになってきた。例えば、フジテレビや花王に対してデモすることや誕生日を祝うため砂浜に落とし穴を掘ること(以前のエントリ参照)。


以上が自分の考えるリベラリズムと<意味と強度>の関係である。


この関係から分かることはリベラリズムもフィクション(幻想)だということ。理由は前提のはずの近代社会は成り立ってないし、「リベラリズムは個人の価値観の追求を目的にする」といっても個人は自分の価値観を持っていない(社会に持たされているだけ)ため。このような現実に対してリベラリズムを説いても虚しいものがある。上に引用したミルのアツい言葉も今の日本の状況を考えれば空回りしている。


まあリベラリズムがフィクションだということ自体も常識的な考え方だろう。「フィクションだからダメだ」というわけではない。フィクション(幻想)のお陰で今の社会があるといえる。「欧米に追いつけ追い越せ」、「いい学校、いい会社」という幻想のお陰で日本が高度成長を達成したように。

ただし、フィクション(幻想)と現実との間に整合性が無い場合、酷いことになる。例えば、マルクス主義、太平洋戦争時の日本の精神論。スターリン毛沢東ヒトラーより多くの人間の命を奪ったといえる。この悲劇に対しマルクス主義に責任がないとはとてもいえない。太平洋戦争の話は言うまでもないだろう。

「欧米に追いつけ追い越せ」、「いい学校、いい会社」という幻想も高度成長期には現実との整合性は悪くなかった。今はこれらの幻想が現実と乖離してきた(整合性が悪くなってきた)のが問題だ。そして新しい幻想の供給はない。どうしたらいいのだろうか。社会の問題としても実存の問題としても、これ以上重要な問題は多くないように自分には思える。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

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自由論 (日経BPクラシックス)

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日経BPからも出ていた。同じ内容っぽいが。