「きっと何者にもなれない」と考えるのは社会から与えられる意味に縛られているから
「きっと何者にもなれない」あなたへ
http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20110929#p1
はてなブックマーク経由で知った。
http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http%3A%2F%2Fd.hatena.ne.jp%2Ffujipon%2F20110929%23p1
ブクマコメント込みの良い記事
というコメントがあるように、このエントリとそのコメントがおもしろいので、以前から書いている<意味と強度>の枠組みで解釈してみたい。
1.このエントリは実存の問題を扱っているのでおもしろい
まずよい点。このエントリはとても率直に心情が吐露されているように感じられる。読む人の心を打つのも分かる。きっとブログの著者はいい人なんじゃないかと思わせる。
このような実存の問題にふれられるのはネットのいいところだ。実存の問題は現実では酒を飲んで心神喪失状態でしか口にされない問題だ。同じことを感じていると思われるコメントがある。
このエントリ中、実存の問題だというのが最もよく表れていると思う一文は
「なまじっか、『何者かになろうとして』医者になってしまったばかりに、「自分が何者でもなく、医療という大きな機械のなかの、いくらでも代わりがいる1個の歯車」でしかないことがつらくてしょうがない。」
という箇所と
「何も好きなものがなく、感情移入することもなく、ひたすら『生物として生き続けること』に集中できれば、ラクになるよねきっと。いや、それほど味気ないこともないのかな……。」
という箇所。この2箇所については自分も実感としてよく分かる。日本社会のほとんどの人が抱えている問題ではないだろうか。前者は<意味>を求めてそれが幻想に過ぎないと知り挫折すること。代替可能性に打ちひしがれること。後者は<社会から世界へ>。人間の社会よりも物理的な世界を重視するということ。
2.このエントリに「何者」の定義がない
次に問題点。「何者」を無定義のまま使っているので、コメントも各自の解釈に基づいるので意味が食い違っている。言葉の一義的な定義は不可能だが、無定義というのは酷い。「思っていたことがうまく書けていないのだけれども、僕のなかでもうまく整理できていない話でもあり」とあるが、まずこの「何者」を定義すべき。同じ趣旨のコメント。
この「何者」ってのが何なのかどうもよくわからない
解釈としては以下のようなものがある。
職業と解釈している人。ブログに「何者かになろうとして医者になった」とあるのでこれがまずは妥当か。
職業が何者かを決める唯一の要素、という訳では無い。
歴史上の偉人のようにより厳しく解釈している人。歴史上の偉人は「不特定多数にとって代替不可能な人」といえる。
これまでの歴史の中で何人の人間がいてそのうち何人が名を残したのだろう?
オリジナリティと解釈している人。
そういや、オリジナルな何者かになりたいと思ったことはないなぁ。
まだ十代ですが、「客観的にオリジナル」になるのは意外と難しいものだと思いました。
オリジナリティを「不特定多数にとって代替不可能」と同視している人。
この世界で唯一無二な存在になりたいが,大抵の事柄は別人でも代替可能なんだよね.唯一無二であることをアイデンティティだと思うとそうなる.
なお「オリジナリティなんてものはない」というのは多くの論者が指摘していることだ。不特定多数にとって代替不可能な人なんていないということかもしれない。
3.ブログの著者は社会から与えられた<意味>に縛ばられている
著者の価値観が現れている一文。
「医者というご立派な職業」→これは医者になればいい人生という価値観だ。
「学問の世界で上り詰めていくのは至難だ。」→これは学問の世界で上り詰めるのがいい人生という価値観。
どっちも社会から与えられた<意味>(幻想)に過ぎない。それを表したコメント。
そもそも何者になったら何かあるのか?何も無い。
また<意味>を追い求めるのは止めたほうがいいというコメントも。
「何者」にならなくてもいい。「自分」で有ることが大事。生きる意味とか考えるから辛くなる。
なぜ幻想に過ぎないか。<意味>はその<意味>を信じている人の行為規範に過ぎないから。「医者になればいい人生がおくれるんだから頑張ろう」みたいなその人の行動の基準。同じ<意味>を共有する人が多ければ行為規範は社会規範としてより多くの人に影響するが、社会の外には影響しない。つまり<意味>は人間の<社会>でしか通用せず、物理的な<世界>には通用しない。この点で<意味>は幻想に過ぎない。
「僕はこの『何者かになりたい病』から抜け出せない人間であることを証明しているのですけどね。」
なぜ抜け出せないのか。「何者」が医者やら学問やら社会から与えられた<意味>(幻想)に過ぎないから。これを指摘するコメントもある。
そろそろ自分が何者か、なにを自分の軸とするかというものを他者の目や世間の評価に依らず自らで決定していく生き方にしていかんといかんのじゃないかなぁ、と価値観が多様化している最近の世の中を見るにつけ思う
ただこのコメントにある「自己決定」は近代社会・近代人というフィクションの上に成り立つものに過ぎないので危険だ。完全な自己決定なんてなくって、社会から与えられた<意味>(幻想)から完全に自由にはなれないため。
なぜ社会から与えられた<意味>(幻想)から自由になれないのか(囚われ続けるのか)。
承認欲求〜〜〜!
というコメントがあるように承認欲求があるからだろう。それも特定少数ではなく不特定多数の人からの。「それは最初からムリ」という厳しいコメントがある。
人は何者にもならない。自分自身になるものだ。自分自身を持たないからこんな戯言をいうんだ。
他には「特定少数から承認されれば、いいじゃん」というもっともなコメントがある。このコメントは☆が多い。
「きっと何者にもなれない」と悟る頃に,「それでもこの人,この子とっての何者かにはなれる」と知るのが幸せな人生のロールモデルなんじゃないかと思う。
これじゃ満足できなくって不特定多数からの承認を求める"心"がブログの著者は社会から与えられた<意味>に縛ばられている理由だろう。
「自分は不特定多数からの承認を求めてるんだ」と自覚している人もいて好感がもてる。☆をつけた。社会から与えられた<意味>に縛ばられている人が好きなことをやって自分で<意味>を作り出す人に勝てないという点も指摘されている。
俺の場合は、何か特定のモノになりたいわけではなく、ただただ他人に承認されたい(できれば大勢に、あと自分が尊敬できる人に)だけだからなー。まぁ、こういう人間は本当に何をやっても本当に好きな人間には勝てん
同趣旨のコメント。
「何者」かになった人って「何者かになりたい!!」って思ってなったわけじゃなくって、ただ自分の信じる道を突き進んでたら「何者」かになったわけで、「なりたい」と思ってたら一生なれないんじゃないかな
4.参考文献
というか自分が参考になった本だが。<社会と世界>、<意味>は幻想だということについては、アルベール・カミュが『異邦人』において素晴らしい表現で描いている(読書メモ参照)。
人生は生きるに値しない、ということは、誰でも知っている(p.117)
社会から与えられた<意味>を追い求める人と自分で作り出した<意味>を追い求める人との対比は江川達也『東京大学物語』によく表されている。「東大に入って官僚になれば、いい人生がおくれる」と考える主人公村上直樹と子ども時代「ヘンジン〜」といじめられた経験を乗り越え変人(自分で<意味>をつくる人)であり続ける恋人の水野遙という対比。村上直樹は水野遙という特定少数に承認されて東大幻想から脱出する。江川氏は自分で<意味>を作り続けるという自己決定もフィクションだと分かった上で、「フィクションでもやり続けるしかない」と意識してこの作品を書いている。
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