事実命題と価値命題の混同

次の記事でダメだと思う点を指摘したい。
「『思考と分析』、その微妙かつ決定的な違い」 Chikirinの日記より。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20111028


この記事の主旨は次のように解釈できる。

  • 事実命題=分析=ダメ
  • 事実命題+価値命題=思考=よい
  • 事実命題の例:「市場規模は、前年比8割増となった。」
  • 事実命題+価値命題の例:「市場規模は、前年比8割増と、急激な伸びとなった。」

「ダメ」と「よい」が価値命題なので、ちゃんとこの記事自体が価値命題になっている。この記事中に事実命題があるかは知らないが。


自分がこの記事中でダメだと思うところは事実命題と価値命題の混同という問題を意識していないところだ。事実命題と価値命題は意識的に分けようと思ってもどうしても混ざってしまうものだと思う。


まず事実命題の例「市場規模は、前年比8割増となった。」は厳密に事実命題かという問題がある。
分析の基となる事実命題

  • 去年の市場規模 100億円
  • 今年の市場規模 180億円

も市場の定義や期間の定義次第で変わる可能性があるからだ。例えば、世界各国で会計基準は異なっているということからも推測できる。定義・基準に自分の価値命題を反映させ自分に有利な統計を出すというのは一般的だろう。例えば、今話題のTPP論争など。


次に事実+価値命題の例「市場規模は、前年比8割増と、急激な伸びとなった。」という書き方は形容詞の形で価値命題を事実命題すべりこませる典型的な手法だ。新聞記事などで感情を煽ろうという意図でよく使われていると思う。このような手法はダメだ(この文が価値命題)。

先の例では、新聞社が自分たちの価値(例えば絶対平和主義)を事実(例えば教科書検定問題)に混ぜて読者に浸透させようとする手法が考えられる。

似たような例として南京虐殺問題。論争が終わらないのは事実命題に価値命題がべったり張り付いているからではないか。価値と価値の争いは決着がつかないからだ。これをウェーバーは「神々の争い」と呼んだ。価値の争いの典型例が宗教対立ということだ。

各人がその拠りどころとする究極の立場のいかんに応じて、一方は悪魔となり、他方は神となる。そして、各人はそのいずれがかれにとっての神であり、そのいずれがかれにとっての悪魔であるかを決しなければならない。(『職業としての学問』p.56)

職業としての学問 (岩波文庫)

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社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

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