今敏『千年女優』

本レビューは数年前に書いたものだが、たまたま目に留まって読み返したところ、先日レビューを書いたティム・バートン『ビッグフィッシュ』(2003)と共通する主題を扱っていたので、載せておこうと思う。今から見るとヘンに感じる箇所もあるが、まあそれはそれとして。
監督は昨年惜しくも亡くなった今敏氏。音楽は今野作品に欠かせない平沢進氏。アニメ映画。
今回も完全にネタバレなのでご注意を。同様にあらすじは本エントリ末尾にwikipediaから引用しておいた。


2つほど注釈をつけておく。まず感想の一行目について。「無邪気な昭和の映画」というのは「西欧に追いつけ追い越せや高度成長という<幻想>を信じていればよかった頃の映画」という意味。"鍵の男"という<幻想>を信じて昭和を生きた千代子は当時の日本人そのものを表しているのだろう。産業化を終えた現代の日本では<幻想>の供給不足が深刻だというのが個人的な見解だが、本作からは「現代の映画はどうやって人びとに<幻想>を提供できるか?」という今氏の問題意識が感じられる。
次に、ラストシーンについて。本作のラストシーンは主人公千代子の死。死は完全な<現実>である。千代子の自覚的な<幻想>がこの死という完全な<現実>に勝利するというのが、本作品のクライマックスであり本質である。この点も『ビッグフィッシュ』と同じだ。ラストシーンで自覚的な<幻想>という本作の主題を一言で表現するセリフが秀逸だ。しかし、さすがにこのセリフは映画を見てのお楽しみなので、この感想には書いていない。

今敏千年女優』(2002)日本 ★★★★★

千年女優 [DVD]

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非常に好感が持てる。無邪気な昭和の映画に対し、現代はこのような映画を作るしかないという自覚が感じられる。映画の出来としては★4つという感じだが、その問題意識に敬意を表して★5つ。


本作品を一言で表現するなら、
<幻想は必要である。追い駆けても仕方ないが追い駆けるしかない>ということを示すために、千代子が<幻想>である"鍵の男"を追い駆けるシーンが千代子の回想(過去かつ映画のシーン)を跨いでひたすら繰り返される
という映画だ。


この<幻想>の言い換えは色々考えられる。例えば、「観察できないもの」「存在しないもの」「不変なもの」「絶対なもの」「神」などと呼べるだろう。
当たり前だが多くの観客にとって映画自体が<幻想>の一種だ。


この<幻想>は必要なものだが、<幻想>に無自覚でいいのか?という問いがこの映画の主題だと思う。

この映画は千代子の女優としての終わり(スペースシャトルのシーン)から始まる。立花にとって千代子は<幻想>である。それは冒頭のシーン示される。またカメラマンが立花に「あんまり幻想もたない方がいいんじゃないですか」というセリフもある。
立花は千代子が死ぬ間際の「でもいいの。だって私は…」までしか聞いてないため、千代子の死後も<幻想>を追い続けると考えられる。この千代子の死ぬシーンで映画が終われば、それは今までどおりの映画であり模範的な映画(=幻想)になっただろう。
だが、この映画は違う。この映画のラストシーンは千代子の死後のラストシーンだ。そして千代子の死後がこの映画のメインだ。というか、映画全体がこのラストシーンのための前フリと言ってもいいくらいだ。このラストシーンで自覚的な<幻想>というこの映画の主題が"露悪的"に示される。すなわち、千代子は<幻想>を追い駆けることに自覚的であることが示される。そうすることで、この映画は観客が<幻想>に対し自覚的であるか問うているのではないか。


この問いの準備としてこの映画の前フリ(ラストシーンまでの千代子の回想)は繰り返し観客に<幻想>(=映画)に自覚的であることを要求している。言い換えると、この映画は観客に<幻想>を抱かせない(感情移入させない)ような作りになっている。その代わり映画のシーンを渡り歩くという映画的手法で観客を引っ張っていこうとする。映画的手法を使っているにも関わらず<幻想>を与えるという映画の存在意義を自ら否定するような映画といえる。


感情移入させないような作りとは、例えば、

1.人物描写  千代子も"鍵の男"も人物描写なし、千代子の人物描写をしないため立花が映画のシーンで説明役をつとめる。

2.「鍵」というモチーフ  鍵は千代子にとって"鍵の男"への手がかりであり、男にとって(=千代子にとっても)「重要なもの」への鍵ということが示されている。しかし「重要なもの」が重要なのであって、鍵は鍵でしかない。そして「重要なもの」自体の描写は一切ない。まさに「存在しないもの」「観察できないもの」である。そういう意味で「鍵」というのは"典型的によい"モチーフだと思う。

3.その他  観客に感情移入させないため、以下のような工夫がある。
 ・最初に老婆になっている千代子を見せる(インタビュー)
 ・カメラマンが映画のシーンでツッコミを入れる(カメラマンは千代子に幻想をもってないので)
 ・音楽がテクノ(恋愛モノでテクノは普通じゃない)
 ・立花とカメラマンの漫才が入る
 ・映画撮影が千代子のNGで中断になる
 ・映画の典型的なシーン(切腹とかゴジラとかお見合いとか)が使われる
 ・意地悪な先輩女優や頬傷の男がシーンを跨いで登場する


一般に「観察できるもの」「存在するもの」は必ず覆され・破棄される。したがって、人間が生きるためには「観察できないもの」「存在しないもの」(=幻想)が必要であるということではないだろうか。
劇中何度も登場する鬼婆は「<幻想>がなくては人間は生きられない」と繰り返す役割。年老いて<幻想>を失った千代子の母と意地悪な先輩女優は<現実>を象徴する役割。監督と結託した先輩女優は鍵を隠し、千代子を<現実>へ引き戻し、監督と結婚させる。その鍵を隠すシーンで先輩女優は千代子の母親役を演じており、千代子に見合いをすすめる。そしてガラスに映った先輩女優の姿が鬼婆に変わり、驚いた千代子はNGを出し<現実>に戻る。その後、千代子は監督(夫)が隠し持っていた鍵を発見し<幻想>へ帰っていく。そして千代子の女優としての最後のスペースシャトルのシーンで千代子は老いた自分(鬼婆の姿をした自分)という<現実>を目の当たりにし<幻想>(=女優)をやめる。
このあたりも実によくできている。


過去においては<幻想>を夢中で追い駆けていられたが(千代子が女優(=幻想)として活躍していた時代=昭和)
現在においては<幻想>に自覚的にならざるを得ない、そうならなくてはいけないのではないか。
そんなことを考えさせられる映画だった。

【関連エントリ】
【あらすじ】

芸能界を引退して久しい伝説の大女優・藤原千代子は、自分の所属していた映画会社「銀映」の古い撮影所が老朽化によって取り壊されることについてのインタビューの依頼を承諾し、それまで一切受けなかった取材に30年ぶりに応じた。千代子のファンだった立花源也は、カメラマンの井田恭二と共にインタビュアーとして千代子の家を訪れるが、立花はインタビューの前に千代子に小さな箱を渡す。その中に入っていたのは、古めかしい鍵だった。そして鍵を手に取った千代子は、鍵を見つめながら小声で呟いた。

「一番大切なものを開ける鍵…」

少しずつ自分の過去を語りだす千代子。しかし千代子の話が進むにつれて、彼女の半生の記憶と映画の世界が段々と混じりあっていく…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B9%B4%E5%A5%B3%E5%84%AA