ケインズとガルブレイス

今回はジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)とジョン・ケネス・ガルブレイス(1908-2006)は消費者主権という点で交錯するが、そこはリベラリズムの難問だという話。


ガルブレイスの経済学は制度派経済学と言われるが、それ以前にケインジアンガルブレイスケインズ旋風が吹き荒れるハーバードに講師として赴任しケインズ経済学に感化され、直接手ほどきを受けようとケンブリッジに留学するほどだった。

ケインズ理論にのめり込んでいった私は、ケインズその人に会って彼の経済理論をもっと知りたいと思い、本場の英国へ留学にも行った。(『ガルブレイスわが人生を語る』p.8)

マイケル・サンデルが指摘していることだが(『民主政の不満』(1996))、ケインズ経済学は世界に消費者主権の考え方を広めた。有効需要の原理に表れている。特にルーズベルト以降広まり、60年代までに定着した。
消費者主権とは<国家としては経済成長を最大の価値とし、成長した経済のもとで消費者個人が財を消費して、自分の目的を自由に追求する(=自分の効用を最大化する)のがよい>という考え方。現在でも多くの人が無意識であっても採用している立場だろう。この立場は消費者が自由意志で何でも決定できる、という自己決定を前提にしている。リベラリズム当然の帰結(コロラリー)といえる。
消費者主権は市場主義批判の一種としてよく批判される。例えば内田樹氏が批判している。内田氏などの市場主義批判の問題点はリベラリズムを前提にしつつ市場主義を批判すること。リベラリズムは認めるが市場主義は制限するというのであればその基準を示すべきだが、ただ批判するだけで何の意味もない。市場が万能だなんて思っている経済学者は一人もいないだろう。サンデルのリベラリズム批判もリベラリズムを前提にしているので、その点では共通の問題がある。
ガルブレイス『ゆたかな社会』(1958)で消費者主権を批判した。ちなみにこの本は記号論に基づく消費社会論であるボードリヤール『消費社会の神話と構造』(1970)より早い。ガルブレイスは、消費者が自由意志で消費する財を選んでいるように見えても実際は企業側が消費者の物欲を作り出し、操っている、と主張した。この点でガルブレイスケインズ批判をしていると言える。
このガルブレイスの議論を言い換えると、<消費者主権が成り立たないのは消費者の効用関数を企業が作り出しているから>となる。例えば、AKBのCDを握手券のために何百枚も買ったり『けいおん』の映画をフィルムのために何十回も見たりするのは消費者の効用最大化なのだろうが、その効用関数は本当に正常なのか?確かに疑問だ。本人たちですら疑問に感じているのではないか。しかし、このような手法を使わなければ企業は成功しづらいというのは言えそうだし、難しいところだ。


この問題の根底にもリベラリズムの難問である<個人の自己決定なんてフィクションだ>という問題を感じる。消費者主権がフィクションであってもリベラリズムの建前からは肯定せざるを得ない。しかし現実問題、AKBや『けいおん』などオタク向け商法を見ると消費者主権は「なんかやっぱりヘンだよな」とも思う。このような気分、すなわち「リベラリズムを否定するのは難しいが、リベラリズムのコロラリーである消費者主権はイヤだな」というのが、ガルブレイスであり内田樹氏なのでは。自分もその気分は共有するが、内田氏のように無責任に消費者主権を批判するだけというのはやりたくない。

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