現代日本の生きづらさの根本的な原因は何か?:入替可能性

池田信夫ブログにマイケル・サンデルの師チャールズ・テイラー『自我の源泉』が紹介する記事がある。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51468456.html
少し古い2010年の記事だが、これが以前からこのブログで書いているテーマとぴったり合っている。こういう記事も書いてくれるところが池田氏が凡百の経済評論家とは違うところだ。ただ、この記事で池田氏はあっさりした書き方をしているので読み手に伝わりにくいかもしれない。そこで今回はこのエントリに私の注釈を付してみたい。もちろん池田氏は「そんな意味じゃねーよ」と思うだろうが。


なお、このエントリは以前書いた「前近代社会と近代社会」と同じことを池田氏のエントリをもとに再論するもの。

0.導入

[…]本書は訳本で700ページもあるが、大部分はよくも悪くも常識的な西洋哲学史のおさらいである。著者はカナダの哲学者だが、昔は新左翼の活動家でヘーゲルの研究者という経歴からもわかるように、近代的自我を自明なものとは考えず特殊西欧的イデオロギーととらえ、この人工的な概念がどのようにできたかを明らかにする。

以下の内容は「常識的な西洋哲学史」といえるだろう。私が間違っている点はあるだろうが、特別なことは何もなく欧米では当たり前に議論されている根本的な問題だ。問題のポイントとしては「近代的自我」批判がある。

1.前近代社会の説明

人類は、歴史の圧倒的大部分で数十人から数百人の小集団に組み込まれて暮らしており、王以外の個人名が残ることはきわめて異例だった。その例外が古代ギリシャだが、そこでもプラトンの背後にはポリスという共同体があり、彼の言説の正統性はイデア=神の世界に支えられていた。キリスト教においても、カトリシズムは教会を中心とする共同体だが、アウグスティヌスは教会ではなく自己の「内なる声」に真理の根拠を求めた。

「自己の『内なる声』」が近代的自我に当たる。ここで池田氏は例外的な人たちを強調している。すなわち、普通は前近代社会の説明といえば宗教が共同体を維持していたという話になるが、近代的自我という考え方が古代ギリシャに芽生えていたんだよ、という話を強調している。一般人は共同体(例えば、中世のカトリックの教会)が与える物語(キリストの物語)を<意味>として受け容れ生きていた。「世界は全部神さまがこうやって作ったんだよ。だからこれこれしなさい」。
自分で「生きる<意味>」とか「世界はなぜあるのか?」みたいなことを考える必要はないので、自我といったものは前景に現れない。


キリスト教のなかった日本の前近代社会では共同体=ムラ社会と考えておけばいいだろう。

2.前近代社会から近代社会へ

このような内面を根拠として自我という不動点を置き、そこから科学や道徳を考える発想は、デカルト以降の啓蒙思想に受け継がれ、今日まで続いている。これに対して、ヘーゲルらのドイツ観念論自我という概念は幻想だと批判し、ニーチェからポストモダンに至る人々は、自我に依拠する絶対的価値を否定する。啓蒙的な個人主義が論理的にはニヒリズムに行き着かざるをえないというニーチェの洞察は正しいが、ほとんどの人はそのような砂漠状態には耐えられない

前近代社会で一部の人が抱いていた近代的自我という発想は、17世紀の「啓蒙思想」を通じて、現在ほとんどの国が前提としているリベラルデモクラシー(自由民主主義)に至る。宗教から始まった科学が啓蒙思想によって促進され、宗教を掘り崩すことになっていく。言い換えると、一般人が宗教の与える物語(<意味>)から目覚めていく。「神さまが作ったんじゃなくてヒトはサルから進化したの?聖書の話はウソじゃないか」。
自由主義も民主主義も近代的自我があり、自己決定できる個人(近代人)を前提にしている。蒙を啓かれた近代的知性をもつ人びとが対等に交渉して契約して経済活動を行い、対等に議論して投票を行い政治的決定を下す、という風に。
しかし、近代的自我なんて「幻想」だという批判が18世紀あたりから出てくる。その例がカントに始まる「ドイツ観念論」。「だって皆自分の頭で考えて行動なんてしてないでしょ」ということだ。
ニーチェニヒリズムは、私にはよく分からないが、自分の言葉では<意味>を諦めて<強度>を求めればいいじゃないか、ということに対応しそうだ。<強度>を求める行動については本ブログの意味と強度カテゴリにあるエントリを参照していただきたい。

3.近代社会:近代過渡期

近代社会の繁栄をもたらしたのは、このように自我という単位に社会を「モジュール化」して組み替える流動性だが、それによって社会は断片化し、人々は所属していた共同体を離れ、原初的なアイデンティティを失う。そして近代社会で人工的に形成された個人主義アイデンティティの根拠となる企業などの利益集団は、市場の変化にさらされて不安定なので、人々はその不安から逃れるために、すべてを抱擁する「巨大な後見的権力」に救いを求める。

「原初的なアイデンティティ」というのが自分の言葉では<全体性へのつながり>だ。<全体性へのつながり>を求める行動が政治に向かうと「すべてを抱擁する『巨大な後見的権力』」になるだろう*1


「市場の変化にさらされて不安定」というのは、例えば「いい学校、いい会社、いい人生」という物語(<意味>)が高度成長期後の経済停滞で失われたということ。


「『モジュール化』して組み替える流動性」とは人が入替え可能になるということ。この入替可能性宮台真司氏(首都大)の言葉。この問題は根本的なので、多くの論者がいろいろな呼び方(「アイデンティティの喪失」とか)を使っていると思うが、自分はこの呼び方がしっくりくる。
この入替可能性が「近代社会の繁栄」をもたらしたが、一方で一般に人は自分が入替え可能になることに耐えられない。例えば、職場で「お前の代わりはいくらでもいるぞ」と言われると辛い。しかし、従業員を入替え可能にするマニュアル化などがその職場の効率性を上げ、「近代社会の繁栄」をもたらす。また例えば、恋愛で「この人だけ」と思えず、別れそうな雰囲気になると次の相手を確保しておく。これは合理的な行動だ。しかし互いにこれをやってしまうといつまでも入替え不可能な相手(「あなただけ」)を見つけることができない。互いに入替え可能な恋愛(その先の結婚)に耐えられる人は少ないだろう。

4.近代社会:後期近代

いま日本で人々が直面しているストレスは、このように近代社会が20世紀後半以降の「後期近代」で徐々に経験してきた、社会の断片化によるアイデンティティの喪失という不安が、経済の行き詰まりによって急性の症状としてあらわれただけだ。そこには本質的に新しい問題はなく、簡単な解決法もない

「後期近代」はポストモダンとも呼ばれる。このブログでは日本の高度成長期が終った後(1970年以降)と位置づけてきた。後期近代と対比されるのが近代過渡期。日本での近代過渡期は高度成長期に当たる(1955〜1970年)。この時代までは「いい学校、いい会社、いい人生」という物語(<意味>)が人びとを「アイデンティティの喪失」や「社会の断片化」に直面させずに済んだ。「社会の断片化」「アイデンティティの喪失」とは要は入替可能化のこと。例えば、職場で「お前の代わりができるやつはいない」とか、恋人から「あなたしかいない」と言われればそれがアイデンティティになりうるということ。
この文全体としては、90年代以降の「経済の行き詰まり」により人びとが入替可能性に直面せざるを得なくなったということ。

5.じゃあどうすればいいの?

[…]著者[テイラー]のいうように「多元的な共同体」を再建することも、いまだに遠い理想にとどまる。欧米では1980年代から学問的に論じられているこの種の問題が、日本ではワイドショー的なレベルでしか論じられないのは不幸なことだ。

「多元的な共同体」というのはヨーロッパの例でよく説明される。例えば、スコットランド人はスコットランド人<イギリス人<ヨーロッパ人といった多層的なアイデンティティをもつ。同時に家族、職場、教会、地域共同体といった並存するアイデンティティももつ。ということ。このような多元的なアイデンティティで近代的な入替え可能性に対抗しようという発想がある。テイラーやサンデルのようなコミュニタリアンがよく言う。またアマルティア・センアイデンティティと暴力』もそんな話のようだ(姜尚中氏の書評によれば)。
しかしこの発想は池田氏の言うようにまだまだ「遠い理想」という感じだ。EUはその「遠い理想」に向かう崇高な企てといえる。かたや日本は「ワイドショー的なレベル」ということだろう。

自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―

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アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

アイデンティティと暴力: 運命は幻想である

*1:普通は全体性が全体主義につながることを批判する。池田氏が「後見的」などと言うのはいつもの福祉国家(大きな政府)を批判をするため。