捕鯨問題の解決とは何か?

毎日新聞より。
http://mainichi.jp/select/today/news/20120108k0000e040137000c.html

調査捕鯨シー・シェパードか 3人、日本船に乗り込む 2012年1月8日 12時59分 更新:1月8日 19時36分

 水産庁は8日、オーストラリアの西部沖で、日本の調査捕鯨船を監視するために随行している同庁の監視船「第2昭南丸」(712トン)に、オーストラリア人の男性3人が許可なく乗り込んできたと発表した。反捕鯨団体シー・シェパード」(SS)のメンバーによる妨害行動の疑いがあるとみて、3人に事情を聴いている。

 水産庁によると、同日午前5時40分ごろ、高速小型ボートが監視船に急接近し、男性3人が乗り込んだという。第2昭南丸の乗員や男性3人にけがはないという。

 調査捕鯨を巡っては、シー・シェパードの妨害行為が続いていることから、水産庁が監視船を派遣。しかし、今月4日には調査捕鯨船団の1隻が妨害を受けている。同庁によると、捕鯨船団への乗り込み行為は3回目。

毎年恒例の捕鯨船環境保護団体との小競り合いだ。
以前、元水産庁の小松正之氏の漁業の本(『日本の食卓から魚が消える日』)を読んだが、氏はもともと捕鯨問題で有名な人だった。そこで捕鯨問題についての本を何冊か読んだので、今回はその内容に基づき捕鯨問題の安定的な均衡*1(落ち着く先)を考えてみる。


まず捕鯨推進派(日本)と反対派(オーストラリア・ニュージーランドアメリカなど反捕鯨国)の動機を考えてみると次のようになる。

日本→水産庁の組織維持。水産官僚の<強度>を求める行為。
捕鯨国→環境団体の<強度>を求める行為。環境団体を票田とする政治家

まず反捕鯨国の動機をみて、次に日本側の動機をみていく。<強度>を求める行為とは何か。いつも書いていることだが、

  1. 「それ自体が目的」「意味がない」
  2. 高揚感・一体感がある

こと(<強度>)を求める行為だ。


クジラを守ったところで、どうということはない。誰かの生活水準が上がるわけではない。シー・シェパードグリーンピースのような環境保護団体にとってはクジラを守ること自体が目的なのだ。彼らはクジラを守る運動から高揚感・一体感を得ているのだろう。日本の捕鯨船にモーターボートで突っこむ際にはきっとアドレナリンが出て気持ちいいのだろう。


彼らはクジラやイルカに<臨在感>(ある対象の背後に何かが臨在するという感じ、何かとは普通は神)、<世界とのつながり>、<全体性とのつながり>を感じてしまっているのだろう。そして<臨在感>を共有する者どうしでまさに同志としてワイワイと運動をやるのが楽しいのだろう。
何に<世界とのつながり>を感じようとそれは人の勝手だが、リベラリズムの根本である他者危害原理(侵害原理、他人に迷惑をかけないこと)は守ってもらわないといけない。したがって犯罪行為なんてもっての他だ。


そのような<臨在感>を感じて運動に熱中してしまっている人たちは政治家にとっては非常にうれしい存在だ。票集めに役に立つので。しかも捕鯨は反捕鯨国にとって最早何の経済的価値もないので捕鯨に反対しても、誰か他の有権者の票を失うことはない。よって政治家にとって反捕鯨を主張しておくのに越したことはないのだ。


日本の捕鯨推進の動機は何か。まず経済的価値がないことを確認するのが重要だろう。IWC南氷洋(南極海)でのモラトリアムを終了させ、商業捕鯨を再開させたところで、捕鯨から上がる収益はたかが知れているだろう。南氷洋は公海であり、捕鯨解禁となればどの国でもクジラを取れるようになる。今はノルウェー、日本などが南氷洋捕鯨を独占していた頃と違って、漁業技術が発展している。よって南米の国々でもクジラを捕れるだろう。そうすると人件費の高い日本が極東からわざわざ船で長旅をして、クジラを捕りに行って利益が出るとは思えない。


経済的価値がないとなるとやはり水産庁・水産官僚の自己保存・組織維持が目的だと考えざるを得ない。彼らは調査捕鯨に基づく科学的なデータに基づいてクジラの資源量は増えており、間引かないと魚が食べられてしまう。生態系の維持捕鯨が必要だと主張している。南氷洋での調査捕鯨は日本しかやっていないこともあり、この結論が正しいのか分からないが、かりに正しいとして「じゃあ、生態系維持のために必要な数は毎年捕鯨OKにしましょう」となっても上述のように日本の出る幕はないだろう。


さらに水産官僚はもしかすると生態系の維持という地球規模の目的に<全体性とのつながり>を感じてしまっているかもしれない。それじゃあ環境保護団体と同じになってしまう。官僚というのは日本の国益に<全体性とのつながり>を感じる人たちでないといけないのだが。


ということで、結論としては<生態系維持のための捕鯨は認める。しかし日本ではなく南米など経済的に有利な国が捕る。もし日本で鯨肉需要があるならそれらの国から輸入する>。
これが安定的な(=合理的な)均衡だろう。この均衡に至るまでは、日本と反捕鯨国はIWCなどを舞台に互いに<強度>を求める行為を続け、決着のつかない価値観の争いをやって、資源の無駄を続けるのだろう。この状態が不安定な(=非合理な)均衡。



この無駄はバカバカしいことだ。しかし、<意味>の供給不足が激しい「ゆたかな社会」である現代においては、こうやって<強度>を求める行為でガス抜きをさせてあげることはある程度必要なコストなのだろう。あんまりコストがかかるようだったら別のガス抜きに移らせるべきだが。
ただ環境保護運動に関しては、それ自体が均衡になりつつあるようなので、運動に逆らっても得るものは少なそうだ。ということで<日本が捕鯨を諦めて、捕鯨は半永久的に禁止され、クジラが増えすぎて生態系が崩れる>という非合理な均衡に至るかもしれない。


以上で捕鯨問題については終わりだ。以下は蛇足。
捕鯨問題も原発問題も昨日の債権法改正問題も、社会問題はそのほとんどが学際的な複合問題だ。捕鯨問題で言えば、生物学など自然科学、国際政治という政治学水産業や「コモンズの悲劇」といった経済学、IWCの基礎となる国際捕鯨取締条約や海洋法条約といった法学。原発問題で言えば、自然科学、工学、政治学、経済学などの複合問題だ。民法改正も法学中心でありながら、背後に政治学、経済学がある(ことを示した)。ことほどさように社会問題は複合問題なので、一つの学問分野の視点からだけで論じることはできないと思う。当たり前のことだが。

【関連エントリ】
【参照文献】

よくわかるクジラ論争―捕鯨の未来をひらく (ベルソーブックス)

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クジラは食べていい! (宝島社新書)

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日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか (幻冬舎新書)

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※著者はグリーンピース・ジャパンの代表。

*1:ここで、均衡とは次のような意味で使っている。ナッシュ均衡などゲーム理論で主に使われる概念で互いに合理的な選択をした結果として落ち着く状態。なぜ落ち着くかというと、その選択から他の選択に移ると互いに損をするので選択を変えないから。