哲学・宗教・文学は人生の無意味さに抗する試みである(チャールズ・テイラー)
最近読んだ本の中にこのブログでずっと取り上げている問題(<意味と強度>問題)についての根本的な言及を見つけたのでここにメモしておきたい。チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』(2001)より。チャールズ・テイラーはカナダの哲学者でマイケル・サンデルの師匠。
哲学・宗教について。
いっさいのものには恐らく意味などないのだ、という憂鬱の近現代的なスタイルは、新しい脅威としてすでに認知ずみのものである。わたしたちはこれがすべての人にとっての脅威であることをよく認識している。我々は今では諸々の哲学や精神的な立場がすべて、この脅威に向けられたものであり、無意味さの感覚を反駁し、阻もうとする試みであると理解することさえある。宗教の歴史をこのプリズムを通して解釈し、有史以来の宗教をあたかも物事の本質的な無意味さにたいする一つの答えとして理解できるかのように考えるのは、よくある考え方である。わたしは、この考えこそウェーバーでは暗黙に採用され、ゴーシエではより明示的に採られている考えである、と論じたくなる。(p.35)
テイラーは文学の例としてシャルル・ボードレール『悪の華』を挙げている*1。
ボードレールの「憂鬱な」詩は逆説的な解放を成し遂げる。彼が空虚な世界、険悪な鉛色の空を描くとき、わたしたちに課されている意味という重荷に一つの姿形が与えられ、それによって肩の荷が下りたような解放感が実現する。(p.34)
かつて[近代以前]は憂鬱、無感動、倦怠などの核をなす意味の喪失という突然の感覚は、ものごとの意味に疑いが生じないような一定の枠組みのなかで経験されるのが常であった。その枠組みのなかでは、神は存在し、善と悪は確定し、わたしたちの使命は否定しようがないものであった。ただ、そこでもなかには、そう感じることができない人がいる。その人は突然枠組みの外側に飛び出て、追放されてしまっている。[・・・]
ところが近現代の文脈では、この意味への保証がなくなってしまい、憂鬱はすべての伝統的・神学的・歴史的拠り所への疑いが可能となった世界において発生する。そのために、それは新たな形をとる。それは疑いの余地がない意味の宇宙からの拒絶や追放という感覚ではなく、むしろ決定的な無と言うべきものの予感、意味という最後の幻想が崩壊する最終的な幕開けの予感としての憂鬱なのである。それはわたしたちを新しい仕方で苦しめる、ということもできるだろう。(pp.33-34)
【関連エントリ】
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*1:p.35で本書に言及