「テレビ局なんて入らなければ良かった」:リベラリズムと憲法

昨日の続き。昨日はお医者さんが"何者"にもなれないと嘆いていましたが、今日はテレビ局の中の人が心情を吐露しています。はてなブックマーク経由で知りました。
http://anond.hatelabo.jp/20111001100318
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20111001100318

僕は子供の頃からの憧れだったテレビ局で働くことになった。

何というか、今日よりステキな明日があるのではと幻想を抱いていた。

このエントリは要は「テレビ局ではたらく→幸せ」と考えていたけど、実際にテレビ局で働いても幸せにつながらなかったということでしょう。あとは「希望をもつこと→幸せ」というつながりもあるということでしょう。ここで希望は「将来が良くなる」という予想のことで、どう良くなるか、実際に良くなるかは関係がないところがポイントだと思いますが、それには今回は触れません。


なぜ「テレビ局ではたらく→幸せ」とつながらなかったのでしょうか。このエントリには「なぜテレビ局に憧れたのか」「なぜテレビ局ではたらけば幸せだと考えたのか」という重要な情報が書かれていません。この理由次第で話は変わってきますが、ここでは「なんとなく」ではないかと推測して進めます。
例えば「収入もいいみたいだし、テレビ番組は見ていて面白いし、芸能人とかいて華やかだし」みたいに世間一般ありきたりな理由で「テレビ局ではたらく→幸せ」と考えたと推測します。
結局これらの理由がこの人の幸せを感じる理由になっていなかったのではないでしょうか。世間一般で言われていることを鵜呑みにして自分で「何が幸せにつながるのか」(「X→幸せ」のX)を考え抜かなかったんじゃないでしょうか。別に考え抜かなくっても自分の選択が自分の幸せにつながることはあるでしょう。ただこの人の場合は違ったということだと思います。
私は収入や芸能人といった抽象的なXは一般に幸せにつながらないと考えています。が、これもまた別の機会に。今回は「何が幸せにつながるのか」を各自考えることが今の日本の社会の前提になっているという話をしたいと思います。それがこのブログのテーマであるリベラリズムや法=正義と関係しているからです。


今の日本の社会は「何が自分の幸せにつながるか」(「X→幸せ」のX)は自分で考えて自分でそれに向けて行動してね、という前提の上に成り立っています。具体的には日本国憲法です。中でも一般に憲法の最重要条文といわれる13条です。憲法は日本の社会の基本ルールなので、ここに書いてあること日本社会の前提といえることばかりです。
さて、13条を見てみると

第13条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

とあります。この条文は極論すると「X→幸せ」のXは自分で考えて自分でそれに向けて自由に行動してね、となります。「個人として尊重」に表れています。ただし、まったくの自由ではなく「公共の福祉に反しない限り」という制限がつきます。これは「他人の権利を害しない限り」という意味と考えればいいでしょう。よって「X→幸せ」のXは自分で考えてそれに向けて他人に迷惑をかけない限りで自由に行動してね、という意味になります。


なぜ今の日本社会はこのような前提をとっているのでしょうか。昔はどうだったのでしょうか。昔は個人の幸せなどというものは考慮されていませんでした。個人という考え方自体が新しいものです。昔は身分制度があり、自分で「X→幸せ」のXを考えるような状況ではありませんでした。どこに生まれるかによって人生が決まる部分が大きかったわけです。男女のどちらに生まれるか、親の職業は何か。それは伝統が身分制度という形で人を縛っていたためでしょう。このような伝統の縛りを抜け出して身分制度などなくそうという動きが歴史上繰り返されて、日本でも今の憲法ができて、今の日本の社会があるということです。例えば「身分制度はなくす」というルールは憲法14条です。

第14条1項  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2項  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。


このように憲法は「X→幸せ」のXは自分で考えて自分でそれに向けて自由に行動するための環境づくりをするための基本ルールの集まりといえます。自分の幸せに向けて自由に行動する環境は整えておいてあげるから、あとは各自Xを見つけて好きにやって、ということです。先のなぜ今の日本社会がこういう前提を採用しているかという問題ですが、こうすることが全員にとって最も好ましいと考えたからでしょう。そこには「X→幸せ」のXは人それぞれだという考え方があります。だからXは各自で見つけてね、ということです。このような考え方を自由主義リベラリズム)と呼びます。日本国憲法リベラリズムを前提にしています。ここまでで「X→幸せ」のXを自分で考えることとリベラリズム、法=正義との関係の説明は終わりです。


ただ現実問題としては、各自Xを見つけろ、と言われてもなかなか厳しいものがあります。普通はなかなかXが見つからないわけです。だから世間一般ありきたりな理由を借りてきて、「オレのXはテレビ局に入ることだ」みたいに思い込むことが多いのだと思います。私がよく例に挙げるのは「いい学校、いい会社」とか「東大法学部に入って国一受かって官僚になる」とかです。ただこうやってありきたりな理由を借りても、このテレビ局の人のように幻想だったとガッカリするハメになることが多そうです。
そこで現実問題として厳しいと分かっていても自分でXを見つけようとすることが必要じゃないでしょうか。日本の社会も少なくとも法律上はそれを前提にしているわけです。憲法が認めてくれている、他人に迷惑をかけない限り自分でXを見つけて自由に行動してもいいんだ、という考えはもっと多くの人に共有されてもいいと思います。また自分でXを見つけて自由に行動している人を邪魔する人こそ法に反しているという考えももっと共有されてもいいと思います。