伊東光晴、根井雅弘『シュンペーター』

シュンペーター―孤高の経済学者 (岩波新書)

シュンペーター―孤高の経済学者 (岩波新書)

伊東光晴、根井雅弘『シュンペーター』(1993)岩波書店 ★★★

吉川洋『いまこそ、ケインズとシュンペーターに学べ』で紹介されていたので読んでみた。伊東氏は京大名誉教授。根井氏は伊東氏の弟子で京大教授。本書は共著になっているが根井氏はごく一部を執筆しているだけで大部分は伊東氏による。
本書の大まかな構成は前半(第1〜3章)がシュンペーターの自伝。後半(第4章)がシュンペーターの学説の紹介。第4章の半分強が根井氏の担当。
自伝のうちのウィーン時代(第2章)が非常によかった。世紀末ウィーンの思想状況を考慮した内容になっているためだろう。伊東氏もシュンペーターをドイツ・オーストリア思想の中でとらえなおす目的で書き始めたといっている。この章だけなら★4つ。ただ残りの部分は「パッとしないな」という感じ。例えば、イノベーション理論の解説などは通り一遍。

【序章】

シュンペーターケインズを比較している。

シュンペーターの視野は、いわば高い山頂から投ずる灯台の光のように、静かに回転しながら広い海の上をすべってゆくような経済学の体系であった。その光は手元では強烈であっても、海面には届くか届かないかの弱い光になっていった。だが、ケインズのそれは、魚を求めて海面を強く投射する漁火のようなものであった。(p.7)

本書はこの文のように思想史的な雰囲気が強い。文系ぽくて理系ぽくないということ。

シュンペーターケインズ批判

第一に政治家が自分の利害から離れ、経済全体のために正しい政策をとるという前提をとっていること。第二に短期だけで長期には当てはまらないというもの。どちらも普通の批判か。

ビジネスは資本家の利潤追求によって動いていることを前提している経済学者たちが、なぜ「政治的施策がほかならぬ政治家の利害から理解されねばならぬという、これまた全く自明のはずの事実に対して目を覆い続けた」のであろうか。「国家というものを雲の上から引きずりおろして、現実的な分析の対象にまで持ちこんだ点こそマルクスの重要な科学的功績であった」が、ケインズはこの誤りをおかしている。(p.9)

【第1章】

かれ[ワルラス]が教授として教壇に立ったとき、それを聴く学生は、数人にすぎなかったのである。かれのあとをついだパレートは、初めて教壇に立った時、二〇人を超える聴講生がいたのを喜んだという。(p.29)

先を行き過ぎていたということだろう。

企業者の行動を支えるものは銀行であった。革新の意義を見抜き、評価し、これに資金を提供する能動的主体である。それなしに、資本主義は発展しない。(pp.34-35)

アメリカのベンチャーキャピタルのようなものか。日本の銀行は程遠いだろう。

【第2章】
ハプスブルク帝政末期のオーストリア

オーストリアは二つの魂を持っていた。その第一は、多民族国家ゆえの苦悩と支配者のドイツ連邦への心情的一体感であり、第二の魂は、先進国イギリス、フランスへの憧れである。(p.40)

まったく同意。第一の魂の例が当時ウィーンで貧乏美術学生をしていたヒトラーで、第二の魂の例がウィーン生まれのカール・ポパーだろう。
ウィーンの知識人は主に自由主義者だった。なぜか。プロイセンを中心とするドイツの民族主義にのみこまれるのをおそれていたため。
根井氏はシュンペーターイノベーション理論には世紀末ウィーンの文化・芸術を経験したことが影響していると考えている。

シュンペーターウェーバーの対談

1918年ウィーンのカフェで二人は話し合った。

シュンペーターロシア革命について満足の意を表明した。社会主義はもはや机上の空論ではなく生存能力のあることを証明したと。マックス・ウェーバーは激昂して、ロシアの発展段階での共産主義はまさに犯罪であり、その道はかつてない人間の悲劇をつきぬけて、恐るべき破滅に終わるだろうと言った。(p.44)

マックス・ウェーバー社会主義はまさにウェーバーが1918年ウィーンでオーストリア将校に対して行った社会主義を批判する演説をおさめている。このときにシュンペーターと会ったんだろう。ポパーウィトゲンシュタインの直接対決もおもしろいが、ウェーバーシュンペーターにも直接対決があったとは。興味深い。

●オーストラリア学派とドイツ歴史学

ドイツ[歴史学派]の特殊性の強調に反発して、理論の普遍性を求めるオーストラリア学派を構成させていった。[・・・]だがこのオーストラリア学派とはちがって、現に重工業化を進め、イギリスに迫ることを課題とするドイツ歴史学派は、ナショナリズムを前面に押し出し、[・・・]上からの工業化と、それによって生じる労使関係のゆがみを是正するため社会政策の必要性を説いたのであった。ウェーバーは、その伝統のなかにあった。[・・・]一方で学問の価値判断からの分離を主張し、[・・・]理念型を提起していた。その意味では、ウェーバー歴史学派そのものではなかった。(pp.50-51)

財務大臣

戦後初の(オーストリア共和国成立後初の)選挙で社会民主党が第一党となりキリスト教社会党と連立内閣を成立させた(1919)。ウィーン大学でのシュンペーターの学友オットー・バウアーが外務大臣となりシュンペーター財務大臣に推薦した。

第一次世界大戦後のインフレへの対策

財務大臣シュンペーターは一回限りの資産税によって貨幣量を減らすべきとした。それと同時に外国資本の導入を図った(資産税の優遇)。この場合の外国は主に英仏。一方オットー・バウアーは社会主義化とドイツへの併合を図っていた。よって両者は対立しシュンペーターは失脚する。結局インフレは防げずオーストリアはインフレによる「戦時負債の消却という、もっとも安易な、そして国民に多大な犠牲を課する道を歩んだ」(p.77)。

シュンペーター語録

消費者の利益は一般に"公共の福祉"というはなはだ曖昧な言葉に与えうる唯一の、実質的内容である(p.72)

おもちゃの鉄砲を持って、実践の塹壕にとびこんではなりませんぞ(p.90)

この言葉は、伊藤氏によれば「方程式体系で示される機械的因果関係と[・・・]企業家の新結合による発展とは異なるものであり、このことを無視した理論は、しょせん実践のそれではない」という意味。

すべてを理解することはすべてを許すことである。われわれは、ほとんどすべての理論から少なくとも何ものかを獲得することができる。(p.91)

[静学理論とは]均衡の諸条件と、均衡がどんな小さな擾乱の後でも回復する傾向にある道筋についての単なる言明にすぎない(p.116)

マルクスは結論を生み出す議論そのもののなかに経済史的事実を導入したのである。彼は経済理論がいかにして歴史的分析に転化されうるか[・・・]を体系的に理解しかつ教えることにおいて、もっとも優れていた最初の経済学者であった。(p.156)

近代経済学は、シュンペーター以後、高度の数学的装備をもって著しく進歩したけれども、「経済理論の制度的与件とその歴史的変化」を取り扱う「経済社会学」の分野では、見るべき業績はほとんど現れなった。(p.162)

根井氏のシュンペーター評価。

【第3章】
●ハーバード時代のシュンペーター

自身の理論を打ち立てた『経済発展の理論』を歴史的・統計的に実証した『経済循環論』(1939)の執筆中にケインズ『一般理論』(1936)が出版され、そのブームに乗らなかったシュンペーターは時代から取り残された。

●『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)

シュンペーターの言う社会主義は現在で言う社会民主主義シュンペーターにとって政府による経済政策が行われるような社会は純粋な資本主義社会ではなかった。

【第4章】

生産要素には労働・土地・資本のほかに技術・社会組織がある。シュンペーターが批判したマーシャルが最初に組織を生産要素として挙げた。

新結合とは発明・創造ではない。そういった新しい可能性はいつでも存在している。その新しい可能性を「生きたもの、実在的なものにし、これを遂行すること」(p.135)である。

●マーシャル語録

有名な「cool head, warm heart」は、ケンブリッジは公共心をもつ人間を育てなければならないという講演の一部。

強き偉大なる母ケンブリッジが世界に送り出すものは、冷静な頭脳と温かい心をもって、自己の周囲の社会的苦悩と闘おうとするために、自己の最善の力の少なくとも幾分でも喜んで捧げようとし、また教養ある高尚な生活のための物質的手段をすべての人に与えるのはいかなる程度まで可能かを明らかにするまでは、安心して満足せずと決心しているものであるが、これらの人々を増加させるために、私の貧しい才能と限られた力を挙げてできるだけのことをするというのが、私の胸中深く秘められた念願であり、また最高の努力である。(p.151)

「いかにもヴィクトリアン」という感じ。マーシャルは「経済騎士道」を提唱していたくらいだし。

【第6章】

19世紀科学主義はイギリスにおいて生物学をモデルに大陸において物理学をモデルにしていた。「その経済学的表現がマッハ哲学の影響下のワルラス一般均衡理論であったことは、あらためて書くまでもない。」(p.197)そうなの?「書くまでもない」ってほどの常識なのか。知らなかった。

【参照文献】

ジョン・ケネス・ガルブレイス『ゆたかな社会』