岩田規久男『経済学的思考のすすめ』

2011年の本を紹介するシリーズ9冊目。今回は5冊目の小島寛之『数学的思考の技術』と似たタイトルの本書の読書メモを。本書のいう「経済学的思考」とは仮説演繹法のこと。仮説演繹法は非常に重要な概念である。以前のエントリ参照。本書を読んだ当時の自分は、この<仮説演繹法は重要だ>という想いが相当強かったらしく読書メモに加えて自分で文章を書いていた。すっかり忘れていたので読み返すと自分でおもしろい。

経済学的思考のすすめ (筑摩選書)

経済学的思考のすすめ (筑摩選書)

岩田規久男『経済学的思考のすすめ』(2011)筑摩書房 ★★★

『「不安」を「希望」に変える経済学』(2010)以来の岩田氏。タイトルから小島寛之『使える!経済学の考え方』(2009)を思い出したがだいぶ違う話だった。小島氏の本は<自由や平等などにも経済学的思考が使える>というテーマで厚生経済学を紹介したものだった。一方の本書は辛坊兄弟の本『日本経済の真実』などを「シロウト経済学」として批判するものだった。経済学的思考は、小島氏の本で数理的な思考として、本書では演繹法として主に位置づけられている。本書で岩田氏はシロウト経済学は帰納法の誤りを犯していると批判している。
なお、本書は福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011)の姉妹本。


本書の大まかな構成はメインのシロウト経済学批判(第1〜3章)の後、経済学の基本的な概念の解説(第4、5章)、毎度毎度のインフレ目標政策(第6章)、モデルの検証(第7章)。真ん中の第4〜6章は本書とあまり関係がない。ページ数の調整だろう。第4、5章は書いてあることはいいのだが、体系だっておらずズラズラと書かれているだけで全体としての評価を下げている。第6章はもう書かなくていいんじゃないか。特に本書のような別テーマの本に含めなくても。
よって、それ以外の第1〜3、7章が本書のメイン。帰納と演繹の問題は経済学的思考=モデル思考の本質的な問題だとは思う。しかし、この問題は認識論やその一分野ともいえる科学哲学の大きな問題であって、あまりにメジャーだ。よって過去に膨大な議論の蓄積があると思われる。よって本書の内容に新味はない。あとはそもそも内容が正しいのか疑問が残る。ということで全体としての評価は普通。★3つ。


演繹は推論自体は間違わないが仮定が間違っていれば結論も間違う(無意味になる)。だから経済学でも、仮定が重要なのだが、暗黙の仮定があったり、仮定が非現実的だとして批判されている。一方、帰納は推論自体が正しいとは限らない。ただ正しい推論(演繹)は結局は命題の言い換えに過ぎないので、本当に新しい問題は帰納から始めないと扱えない。結局、帰納と演繹は一緒に用いられるものといえる。観察から帰納を使って仮説を立て、仮説から演繹で結論を出し、観察に基づいて検証するということだ。これが仮説演繹法と呼ばれるあまりに一般的な科学の手法だろう。野家啓一パラダイムとは何か』(2008)によれば、仮説演繹法を体系を打ち立てたのはイギリスの天文学者ジョン・ハーシェル『自然哲学研究に関する予備的考察』(1830)だそうだが、より古くは13世紀まで遡れるという。


経済学は科学たらんとしてこの仮説演繹法を用いているが、あまりに対象(経済とその中の人間)が複雑なので、なかなかうまくいかないということだろう。それでも少しでも進むにはこの方法(科学)以外に方法が見当たらないと思われる。そこで仮説が非現実的だと批判するのはいいとして、「じゃあ代わりにどんなモデル(仮説)がいいのか」というのが問題になるだろう。この新しく提案されるモデルはより複雑になっているのが普通だろうから経済学はどんどん分かりにくくなりそうだ。今でも分かりにくいのに。だからシロウト経済学が売れる余地があるのだろう。それは、経済学の分かりにくさからして不可避のような気もする。


そこで、この問題はひとまず措いておくとして、自分が問題にしたいのは仮説演繹法という基本中の基本が世の中であまり気にかけられていないことだ。あらゆる科学をやる場合に必須の知識のような気がするが。枝葉末節の知識を教えるより、こういう基本原理を教えたほうがいいんじゃないか。


岩田氏は「一般向けに経済学の入門書を書いてきたのに、辛坊本の方が売れるなんて努力が報われない」とぼやいている。そりゃぼやきたくなるよね。そこで本書ではその反省から趣向を変えて帰納法演繹法という視点から経済学を紹介することにした、という。このやり方で「売れる」とも思えないけど。


本書で実際に批判されている帰納法の多くはアブダクション。ただ、岩田氏の批判するものが本当にアブダクションなのか疑問が残る。例えば、アブダクションを最初に解説する箇所で用いられる次の例。

Aは努力して金持ちになった。Bも努力して金持ちになった。よって努力すれば金持ちになれる。

本当?これはアブダクションじゃないんじゃないか。アブダクションについては西垣通『基礎情報学』(2004)に分かりやすく説明されていたので、その読書メモを引用。

演繹は法則(大前提)と事例(小前提)から結論を導くもの。

  • 法則:火事になると煙が立つ
  • 事例:家Aが家事だ
  • 結論:家Aから煙が立つ

一方のアブダクションは法則(大前提)と結論から事例(小前提)を導くもの。よって当然誤る可能性はある。

この後も岩田氏がアブダクションとする例がいくつも出てくるが疑わしい。


以下、内容のメモ。

【第1、2章 シロウト経済学批判】

第1章では辛坊本が主張している日本のデフォルトは起きないと批判している。ギリシャとの比較など。極端に単純化すれば、お金を刷ればいいからというのが理由だが、分かりやすく説明している。でもデフォルトよりもインフレと円安が問題なのであってあまり意味のない議論。

第2章では辛坊本のGDPとGNPの理解が間違っていると批判している。もうGNPは統計から消えてるけどね。

【第3章 経済学的思考】

仮説演繹法を説明している。

重い物は軽い物より速く落下することについてのアリストテレスの因果的推論がおもしろい。

重いものの本来の位置は下にある。したがって、重いものほど本来の位置に早く戻ろうとして、早く落ちるのだ(p.75)

岩田氏は「分かったような、分からないような説明だが、実は何も説明していない」と評している。これは法学でよくある説明だ。「結論の先取りに過ぎない」、「言い換えに過ぎない」などと批判されたりする。そういう意味では法学の理由付けも科学の因果的推論に共通する面はあるかもしれないと思った。科学といってもアリストテレスの時代の科学だが。


岩田氏は、読者は経済学の予想が当たらないと即断する前に暗黙の仮定が変わったからではないかと考えるべきだという。暗黙の仮定をそもそも止めて欲しいし、仮定が変わるも何も最初から非現実的なのではないかと思ってしまう。

【第3、4章 基本概念の解説】

機会費用、ノーフリーランチ、比較優位に始まり、合成の誤謬や情報の経済学っぽい逆選択モラルハザード、情報の非対称性、共有地の悲劇など一般的な用語の解説。バラバラと総花的な解説だが、個別にみればそれぞれは分かりやすい。

【第5、6章 市場主義】

第5章は市場主義の解説。第6章はそれを労働法などに適用している。章題に「温かい心と冷静な頭脳で」とある。アルフレッド・マーシャルだ。伊東=根井『シュンペーター』(1993)に元となった講演が引用されている。


第5章では第3、4章の基礎概念と絡めて市場の資源配分機能を解説している。例えば、市場は取引費用を明らかにするので効率的な資源配分を実現する。例えば、市場は事業者にイノベーションインセンティブを与える。


第6章では応用として恒例のインフレ目標の話をした後、借地借家法、労働法批判に。

日本の借家の多くが家族用ではなく、ワン・ルームのような単身用で、品質が持ち家に比べて著しく劣るのは、右のように、借家人の居住権を強すぎるほど保護する借家法のせいである。(p.191)

いかにも経済学者的なコメントだがそんなに単純じゃないだろう。
より一般的には、法学は「温かな心」だけで「冷静な頭脳」がないという批判だ。経済学の「冷静な頭脳」では<問題を切り分けそれぞれ適切な政策を割り当てる>という原則から、借家供給増大のために契約を自由化し、低所得者の居住権保護のためには政府が家賃補助するという二つの政策を提案している。この思考法は参考になる。法学に取り入れるべきだと思うが、個人的には法と経済学の本でも見た記憶がない。

労働法については整理解雇の三原則を批判している。これも経済学者に一般的だろう。
おもしろいのは家族法の夫婦財産制度について言及していること。宮崎哲弥氏による、<民法の夫婦別産制は夫婦の共働・共生の理念に反するから、「夫婦共産制」にすべき>という主張を紹介している。岩田氏は、この主張を「温かい心」から出たもので現行制度が理念に反するのは確かだが「冷静な頭脳」が必要だとする。ただ、その政策は単純で贈与税を下げるというもの。なぜ夫婦財産契約を使いやすくする(例えば変更を認めるとか、登記を緩和するとか)という話にならないのか。また離婚・死別時に夫婦財産の共有性が出てくる点をどう考えるのかなど法学的な視点からは不満が残る内容。

【第7章 検証】

女性の労働参加や自殺率などの統計をもってきて仮説演繹法の検証について解説している。

シロウト経済学は仮定をおかずに結論を出す。だから検証もできない。

残念ながら、辛坊本のようなシンプルさが多くの人に受けるのが現実である。シンプルであるから、読むのに苦労はいらない。(p.233)

この嘆きは気持ちが分かる気がする。

【参考文献】

山岸敏男、メアリー・C・ブリントン『リスクに背を向ける日本人』 ※よく読んでいる山岸氏の著書だがこれは未読だなぁ

【関連エントリ】

福澤諭吉に学ぶ 思考の技術

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基礎情報学―生命から社会へ

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パラダイムとは何か  クーンの科学史革命  (講談社学術文庫 1879)

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シュンペーター―孤高の経済学者 (岩波新書)

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