大村敦志氏と内田貴氏の民法改正本を比較する:どちらも単なる民法の問題ではなく大きな政治の問題を背景にもつ良書

今回は債権法改正について書かれた二冊の新書、大村敦志民法改正を考える』(2011)と内田貴民法改正』(2011)を比較してみたい。

民法改正を考える (岩波新書)

民法改正を考える (岩波新書)

民法改正: 契約のルールが百年ぶりに変わる (ちくま新書)

民法改正: 契約のルールが百年ぶりに変わる (ちくま新書)

1.なぜ比較するのか?

共通点が多いからだ。

  1. 二人とも東大民法星野英一門下で兄弟弟子の関係。大村氏はそのまま東大教授となり、内田氏は東大教授から民法改正のために法務省へ移っている。
  2. 二人とも民法改正に関わっている。特に法務省に移った内田氏は中心的役割を果たしているように見える。
  3. 二冊ともその民法改正という同じテーマで、同じ時期に、同じ新書という形式で書かれている。

そして内容にも共通点がある。それを次の項で。

2.二人の主張の共通点は何か?

契約法を市民の法にするという点だ。例えば内田氏は民法改正の理念についてこう書く。

民法の透明性を高め、民法を市民のための法にするという理念(『民法改正』p.212)

なぜ共通するのか。二人の師の星野英一氏(東京大名誉)の影響があるからだと思う。星野氏は市民運動が日本に市民社会を成立させると期待していた、いわゆる進歩的文化人なのだと思う。岩波・朝日文化人とも。だから大村氏の本が岩波新書というのも理由がある。
星野氏の影響は大村氏においてはとても強い。大村氏の本には、いつも星野英一民法のすすめ』(1998)が参照文献に挙げられている。おっと、これも岩波新書だ。星野氏はこの本でスローガン的に言えば<上からの民主化から下からの民主化>といったようなことを主張している。


この主張は政治学の分野でいうと松下圭一氏(法政大名誉)と同じ主張だ。例えば、『政治・行政の考え方』(1998)。これまた岩波新書(笑)。ちなみに、松下氏は市民運動出身である菅直人の思想的バックボーンだ。


ということで二人ともその意味では進歩的文化人の系譜といえるのではないか。そして二人とも今回の民法改正は「法の民主化」と呼べそうなものにすべきと主張している。例えば、内田氏は「法の民主化」の動きとして、裁判員制度や法教育を挙げている。しかし、二人のいう「法の民主化」の中身が少し違う。それを次の項で。

3.二人の主張の違いは何か?

大村氏の「法の民主化」は一言でいえば、市民社会の法にすること。すなわち市民が契約の内容をもっと自由に決められるように改正すること。<平等>な市民が<自由>に内容を決めた契約を結び、<連帯>して社会をつくる。この自由・平等・連帯がある社会が市民社会というわけだ。大村氏はこう書く。

重要なのは相互の対等性(自由・平等)の尊重と共同で行う規範の定立(自治)である。(『民法改正を考える』p.149)

これを契約法改正という領域で考えると<債権から契約へ>というスローガンになるという。債権は民法で発生・変動・消滅・効果などが規定されているが、契約は市民が内容を決められるということだ。もちろん契約でも典型契約・任意規定といった民法の補助はある。
いかにも理論的で理想的で学者らしい。しかし抽象的。ただ具体的な主張もある。それは内田氏の後で。


内田氏の「法の民主化」は市民に分かりやすい法。「分かりやすい」とは(1)条文が読みやすい、(2)規定の内容が条文に書かれていることである。今の民法はルールの内容が条文に書かれていない。それには歴史的な理由がある、ということが内田氏の本に書いてある。この分かりやすい法により市民が自分で条文を読んで内容を理解し契約が結べるという。よって内田氏も「法の民主化」だという。


このように「法の民主化」の中身が少し違う。この違いが民法改正の背後にある利害関係に影響する。それを次の項で。

4.二つの「法の民主化」の背景にある利害関係は何か?

内田氏の「法の民主化」は企業にとって有利*1といえるのではないか。それを大村氏は「市民に不利だ」と批判しているのではないか、ということである。
具体的に「企業」は国際取引を活発に行うような企業、特に英米の金融機関を指す。「今回の法改正は彼らの利益をはかるだけで、結果として日本の市民の利益にならないんじゃないか」という批判だ。もちろん大村氏はハッキリそうは書いていないので推測だが。


なぜこのように推測できるか。内田氏は「法の民主化」以外に「法のグローバル化」のために民法改正すべき、と主張しているから。
法もグローバルスタンダードになりつつある。特に企業が行う国際取引に関する分野では歴史的にそうだ。今回の契約法も国際的に統一される方向に進んでおり、内田氏は日本だけが旧態依然の民法を維持していると国際取引において日本企業が不利になる、という。
内田氏は会計の分野で日本が犯した失敗を繰り返してはならないという。失敗とは国際会計基準(IFRS)というグローバルスタンダードの策定に日本が関与できなかったことを指すと思われる。この国際的なルール作りが日本の関与しない間に進み、ルールが出来上がった後で、もう従うしかない状況に追い込まれてしまうという問題はTPPでも繰り返されそうだ。しかし、大村氏は「そのグローバルスタンダードは結局、アメリカの大企業、特に金融機関の利益になるように作られているだけなんじゃないか」といいたいのだと思う。これもTPPで見られる批判だ。


また大村氏は著書で民法改正における立法過程(法制審議会での議論)や利害関係者たちの主張に言及している。なぜこれについて書くのかといえば上記のような批判を示唆するためだと思える。もちろん山田奨治『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』(2011)のように露骨に書いているわけではないが。なお、この本は著作権法改正の立法過程における利害関係者たち(著作権者)の行動を明らかにしたもの。


この「法のグローバル化」というのが契約法だけでなく日本法全体の大問題だ。日本法は1990年代以降、グローバル化に対応するために終戦期以来の大改正時代を迎えている。今回の民法改正もこの流れの中にある。知財法の改正もこの流れにあると言える。改正された法律として大きなものは会社法(2005)や金融商品取引法(2006)などだろう。これらの改正は国際的な金融機関(アメリカの金融機関)の利益になるばっかりだという批判が以前からある。
知財法について少し例を挙げると、TPPにおける著作権法グローバル化(=アメリカ化)がある。またSOPAもアメリ著作権法の域外適用であり、端的にアメリカ化だ。もっと遡ればGATT/WTOでのTRIPS協定。このように企業の国際取引に関係も深い知財法のグローバル化(=アメリカ化)は数十年の歴史がある。


さて、以上のように見てくると、どちらの本も単なる契約法という民法の中の一分野の改正という問題を超えて、根本的な政治・経済・社会に関する問題を背景にもっていることが分かるのではないだろうか。ただ上記のような問題についての知識がないと背景は読み取れないかもしれない。どちらの本にもハッキリとは書いていないので。

5.個人的にどう考えるか?

個人的には内田氏と大村氏の主張はどちらもよく分かる。グローバル化から目を逸らしても、"鎖国"するわけにもいかないので、最後は従うしかない。それであればもっと早いうちに積極的にルール作りに関わるべきという主張(内田氏)と、そのルールは日本の市民の利益にならず、グローバル化アメリカの利益になるだけだという主張(大村氏)。
結局、大村氏のような批判に耳を傾けつつ、グローバル化に対応せざるを得ないんじゃないかと思う。グローバル化は近代化なので逆らえないだろう。グローバル化に抗うには、アメリカ以上の近代合理主義を身につける必要があると思う。グローバル化から目を逸らすと合理性を失うだけだろう。

*1:弁護士にとって不利でもある。