マイケル・サンデル著、金原恭子・小林正弥監訳『民主政の不満(上)』

以前のエントリで、この本を参照したので、読書メモを残しておく。

マイケル・サンデル著、金原恭子・小林正弥監訳『民主政の不満(上)』(1996)早川書房 ★★★★

原題は『Democracy's Discontent』。邦訳は2010年。監訳者はいつもの小林正弥氏とその同僚の金原氏。金原氏は千葉大教授。専門は英米法。なぜ英米法かというと本書がアメリ憲法史だから。下巻は政治のようだが、上巻はどちらかというと法学だ。

本書の主張は<アメリ憲法史に次のことが表れている。建国当初の共通善を重視する共和主義が失われていき、代わりに価値中立をうたうリベラリズムが支配的になった>というもの。まあ、事実としては、その通りだと思う。ただ事実の評価が違う。
本書では一般的なアメリ憲法史では"正義の味方"という感じで肯定的に描かれるオリバー・ウェンデル・ホームズJrやルイス・ブランダイスが"悪者"のように書かれている。つまり、アメリ憲法史でも通説はリベラリズムである。よって、リベラルの拡大は人権の拡大・正義の拡大として描かれている。しかし、小数説であるコミュニタリアニズムに立つサンデルはそれが気に入らない。サンデルは正より善を重視したいから。リベラリズムは価値中立を装っているだけだから。
と、こんな感じで連邦最高裁判例を紹介しつつリベラリズムを批判する本。

また小林正弥『サンデルの政治哲学』によれば、本書はジョン・ロールズが『正議論』から『政治的リベラリズム』に"転向"した後の著作なので、サンデルは批判の対象を『政治的リベラリズム』に移している。サンデルの『政治的リベラリズム』批判のメインは、価値の「棚上げ」批判。すなわち、<リベラルな最高裁は価値についての判断を避け(「棚上げ」し)判決を下そうとする。しかし、結局それは一定の価値に貢献していることであり、真の価値中立はありえない>というもの。この批判は妥当ではあるが、サンデルのように"共同体の善"を共同体の政治的決定である州法や裁判所の判決で押し付けるは賛成できない。

本書を読んだ評価としては「大したことは書いてないが、おもしろかった」。上に書いたように一般的なアメリ憲法史と対照的なので。有名判例が一般的でない形で紹介されており、アメリ憲法史を反対から見て復習したようなもの。また翻訳者として、様々な大学の教授・准教授が何人も関わっているが、監訳がよいのか不統一は感じられなかった。
あと、これから読む人には重要な点だが、本書はアメリ憲法史についてある程度知識がないと読みこなせないと思われる。アメリ憲法史の入門書としては阿川尚之憲法で読むアメリカ史』がよいだろう。新書で分量が多くなく、読みやすく、内容が充実。

【第1章】

リベラリズムと共和主義の概説。功利主義やカントなどについても解説してあり復習によい。さすがよくまとまっていて頭の整理になる。

リベラリズムの考え方

政府は価値中立であるべきだ(価値の中立性)。善(価値)は主観であるため。価値中立を維持するために、個人の権利を尊重すべきだ。権利は共同体の善のために犠牲にされてはならない(権利の優先性)。これが「多数派の専制」に対する「切り札としての権利」。

自由とは選択できることだ。法(権利)の枠組みの中で個人は自分の選択した善を各自追及すればよい。

リベラリズムの前提とする人間観は、「人はそれぞれ違う」。だから善について一致を見れない。

●共和主義の考え方

自由とは自己統治。自己統治とは公共善について議論し、結論として得られた公共善に向けて政治参加すること。よって政府は価値中立ではなく特定の公共善を支持する。善は私的ではなく政治的(公的)な事項。コミュニタリアニズムは共和主義より広い。公共善を政治的なものに限定しないため。ただし、共和主義には制度として君主制でないという意味もある。この意味ではリベラリズムに近い。

共和主義の前提とする人間観は、「人は自分の選択しなかった義務も負う」。この義務の一つが政治参加の義務だ。リベラリズムは共同体の構成員に政治参加の義務を負わせることができない。

結局、リベラルデモクラシーでは政治参加を調達できないから、こういうことを主張するのだろう。対するリベラルの反論は「政治参加以前に共通善が得られない。善(価値)については議論したって結論が出ないから。だから『棚上げ』するんだ」というものだろう。

リベラリズムへの批判

1.リベラリズムは価値中立ではない。選択・公正といった価値を支持している。なぜこれらの価値は他の価値より優先されるのかリベラリズムは説明していない。
2.価値中立のままでは具体的な事件(事案)を解決できない。
例えば、最高裁は中絶について価値中立を保とうとする。そこで「中絶については女性の自己決定に任せる」という。しかし、それは中絶を容認するのと実質同じじゃないか。カトリックは「胎児は人間だ。よって中絶は殺人だ」という信念をもっている。中絶容認は「胎児は人間でない」という信念を支持することであり、価値中立ではない。
3.リベラリズムは共同体の構成員に政治参加の義務を負わせることができない。
4.価値についての議論を「棚上げ」にすると、構成員の政治参加の意欲をますます低下させる

●政治的リベラリズム

転向後のロールズの立場。善は道徳の問題ではなく政治の問題。多数決で決めたことが善。現実としてはこれが的を得ているように思う。
リベラリズムは多数決で善を決めるための考え方として役立つ。これは言い過ぎのような気がする。民主主義にはそれほどいい印象はないので。民主主義は自由主義の手段じゃないのか。
民主主義は道徳に優先する。優先すると言えばするけど、なんかしっくりこない。

【第2章】

共和主義が廃れ、リベラリズムが支配的になったのは第二次世界大戦後。
憲法制定当初は人権規定(権利章典)は大きな問題になっていなかった。連邦派と州権派の対立が問題だった。制定される合衆国憲法に人権規定も入れるべきだと主張したのは州権派。なぜなら連邦の権限を制限し、州の権限を守れると考えたため。

憲法制定当初は自由は人権規定によって守られるのではなく、権力分立によって守られると考えられた。
人権が拡大したのは南北戦争後。戦争前に人権規定が適用されたのは一回だけ。それがドレッド・スコット事件(1857)。最高裁はがスコットの主人の財産権をミズーリ協定(ミズーリの妥協)より優先させた。
戦争後、第14修正が最高裁に人権規定を使って州法を違憲にする権限を与えた。人権・連邦の権限が拡大し、その分、州の権限が消滅した。ロックナー対ニューヨーク事件(1905)は福祉国家に反するのでリベラリズムとの関係はあまり認識されていない。しかし、ロックナー判決の価値の中立性、権利の優越性への貢献は顕著だ。

●ホームズとブランダイス

ホームズ判事とブランダイス判事が中立性を主張し普及させた。ロックナー判決におけるホームズ判事の反対意見では「最高裁は特定の理論(本件ではハーバート・スペンサー社会進化論)に寄与するつもりはない」と述べた。ホームズは原則として多数決原理を採用し、多数決でも害せない例外を人権とした。

【第3章 信教の自由・表現の自由

これらの分野における、判例を紹介している。

●信教の自由

いわゆる政教分離が登場したのは第二次世界大戦後。1963年の判例では公立学校での聖書朗読が政教分離違反とされた。1968年の判例では公立学校で進化論を教えることを禁じた州法が政教分離違反とされた。これらは宗教に関し中立なのか。無宗教(という宗教)を支持(宗教を攻撃)していることにならないか。
自分はならない気がするが。宗教は学校ではなく家庭で勝手にやれということだろう。ただ、科学(進化論)と宗教にはっきり線引きができるかは分からない。例えば、公立学校でマルクス主義を教えるのは政教分離に反するか?文学を教えるのは?

宗教に関しては、自ら選択していなくても特定のコミュニティに生まれることで、ある宗教的な責任を負うと考える人たちがいる。最高裁は原則として、この人たちを保護しない。しかし、最高裁良心的兵役拒否事件では兵役免除を認めた。

表現の自由

1950年代までは表現の内容によって保護されるかどうか判断された。例えば、商業的広告は保護の対象外だった。これは道徳的な判断がされていたことを示す。それが60、70年代に徐々に変化し、1976年の判例で商業的広告も保護の対象となった。
例えば、表現の内容が猥褻であれば保護されなかった。猥褻は道徳に基づき判断された。ここで、法学におけるもっともインパクトのある専門用語「ハードコアポルノ」の話が出てくる。その後、内容で判断されなくなった。猥褻な表現は、それを見た子どもに悪影響を与えることという理由で規制されるようになった。

スコーキー事件では、ユダヤ人が多く住むイリノイ州スコーキー村がネオナチのデモの差止めを求めた。またネオナチなどのヘイトグループによるデモを禁止する村条例を可決した。連邦地裁は条例を第1修正違反で違憲とした。サンデルは当然この判決に反対。ネオナチのデモは保護すべきでない。平等という共通善に反するので。一方、公民権運動におけるデモは表現の自由で保護すべき。平等という公共善を求めるものなので。こうやって目的で態度を変えろと。まあ最終的にはこのような目的論を使わざるを得ないだろう。

共和主義にとって表現の自由は自己統治のために必要。リベラリズムにとっては、自己の思想を市場で売り込むために必要。

【第4章 プライバシーの権利、家族法

これらの分野における、判例を紹介している。

●プライバシーの権利

ブランダイス判事が弁護士時代にプライバシー権を初めて主張した。ただし、当初のプライバシー権は、例えばゴシップ紙の有名人への過剰な取材などから保護するといった内容だった。
オルムステッド事件(1927)の反対意見で、ブランダイス判事はプライバシー権は「政府から放っておいてもらう権利」であると述べた。
グリズウォルド対コネティカット(1965)で、避妊具使用を禁止する法律が違憲とされた。理由付けは、執行しようとすると政府が私人の性生活に介入することになるから。しかし、その後、1972年の判例では避妊具を使用するかどうかは夫婦の自己決定だからとして違憲とされた。つまり私生活への介入防止から自己決定に変わった。
ロー対ウェード(1973)は人工中絶を禁止する法律を違憲とした。中絶するという自己決定を害するため。この判例では完全に自己決定がプライバシー権に含まれている。

家族法

離婚は以前は有責主義だったため、裁判所は道徳的な価値判断を行っていた。しかし、1970年のカリフォルニア州法をはじめ、無責主義が全国に広まった。よって価値の「棚上げ」が行われるようになった。
この無責主義が破綻主義(破綻の立証要)なのか、完全に一方当事者の意思だけで離婚できる(破綻の立証不要)のか疑問に思って少し調べたが、州によってまちまちのようだ。まあ日本の破綻主義とそれほど変わらないのかも。

【その他】
●契約の死

契約の死の話が出てくる。
なつかしい。内田貴『契約の再生』で読んだ。確かに契約の死とリベラリズム批判はつながっている。契約の死はバーゲン理論(約因による契約の拘束力の基礎付け)が崩れたことを指す。よく出てくる例は贈与契約。例えばAはBから10ドルの価値のある本を贈与された。その後、AはBに10ドルを支払う約束をした。この約束に拘束力はあるか。バーゲン理論では拘束力は否定される。
サンデルが言ってるのは、バーゲン理論では約因に道徳的な判断は含まれないとしていた。しかし近年、道徳的な判断をするような判決が出てきた、という話。
サンデルは契約を規制する立法(労働法、独禁法、保険法など)が増えてきて、そのような立法は道徳的な判断に基づくので「契約の死」が進んでいるとする。私法の公法化として問題になるものだ。

【質疑応答】

巻末に東大の大学院生からチャールズ・テイラーとサンデルに対して質問があり、それに答えている。この中で井上彰氏、神島裕子氏からの質問がまさに自分と同じでよかった。

●井上氏の質問

ドウォーキンを引いて「法解釈学においては目的論は当たり前だ」というもの。よって「リベラリズムだって公共善を考慮している」という主張。これに対するサンデルの答えはよく分からなかった。「確かに法解釈学において難事件を解決する場合には、今でも道徳的な判断をしている。ただ、政治哲学としてはそうではない。法解釈学と政治哲学が分離しているのだ」と。

●神島氏の質問

公共善といっても複数の共同体が共同体ごとに公共善をもっている社会ではどうなる?」というもの。サンデルは「公共善を他の共同体に押付けることはよくない。共同体同士の対話が必要だ」とこれも歯切れが悪い。さらに神島氏が「リベラルデモクラシーが必要だということですね?」と問うと「そうです」と答えている。やはりリベラルデモクラシーが基本なんじゃないか。
サンデルはこうも言う。公共善のための対話には「公共的知識人」が必要だ。しかし、現在のマスコミの低俗な状況からして公共的知識人が活躍する可能性は低い。

【参照文献】

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』
ジョン・ロールズ『正議論』
アレクシス・ド・トクヴィルアメリカのデモクラシー』

民主政の不満―公共哲学を求めるアメリカ〈上〉手続き的共和国の憲法

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サンデルの政治哲学?<正義>とは何か (平凡社新書)

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