ジョン・スチュアート・ミル著、山岡洋一訳『自由論』

以前のエントリリベラリズム、正義=公正=法、個人の尊重(憲13条)について書いた。これらの問題について理解するにはやはりミルの『自由論』が参考になるだろうということで読書メモを載せておく。先月、山岡洋一氏が亡くなったこともあり(以前のエントリ参照)再読した。以前読んだ読書メモとマージしてあるので分量が多い。

ジョン・スチュアート・ミル著、山岡洋一訳『自由論』(1859)光文社 ★★★★★

以前にも読んだが、訳者の山岡洋一氏が亡くなったこともあり再読してみようという気になった。いつものことだが「こんなことも書いてあったのか」という印象を受けた。読み返すごとに発見がありそうだ。主な主張は第1章だけ読んでも分かるだろう。それほどよくまとまっている。しかし第2、3章の脇道の議論にもいいことがいろいろと書いてある。第4、5章は第1章を敷衍したもの。本書の大まかな構成は結論を簡潔にまとめた導入(第1章)、思想良心の自由・表現の自由(第2章)、個人の尊重(第3章)、侵害原理(第4章)、侵害原理の適用例(第5章)。
本書の評価は「素晴らしい」。必読。

●序文

「亡き妻に捧げる」とありいかにもミルらしい。この時代にこの愛妻家っぷりはスゴイ。

●扉文

扉にはビルヘルム・フォン・フンボルトという人の言葉で、こうある。

人類が最大限に多様な方向へと発展していくことが、絶対に、決定的に重要だという原理である。

これは憲法でいう個人の尊重(13条)ということだろう。扉文と序文だけでミルらしい。

【第1章 導入】
●侵害原理

本書の目的は国家が個人に権力を行使する際の限界を定めること。

この小論の目的は、じつに単純な原則を主張することにある。社会が個人に強制と管理という形で干渉するとき、そのために用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論による社会的な強制であっても、その干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則を主張することにあるのだ。(p.27)

ではミルの示す基準は何か。

その原則はこうだ。人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的にあるいは精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。(p.27)

例えば、酒を飲むのは自由だが、酒におぼれ浪費にふけり、家族を養育する義務を果たせなくなった場合は、刑罰を受けて当然ということもある。

この原則は未成年には適用されない。判断力が十分でないため。
「この原則は新しくない。自明だ」と思う人もいるだろう。しかし現実はこの原則と真っ向から異なっている。この当たり前と思われる原理と現実の矛盾を指摘する態度はバートランド・ラッセルにも受け継がれている。よい。

●個人の領域

侵害原理は<個人の領域には国家は干渉しない>と言い換えられる。個人の領域とは、他人に間接的にしか影響を与えない領域。この領域は個人の自由だ。間接的とは、例えば、表現の自由。言論は他人に影響を与えるがその影響は間接的だ。また例えば、次の一文に表れているいわゆる愚行権

自分の性格に適した人生を計画する自由、自分が好む行動をとる自由であり、その結果を本人が受け入れるのであれば、他人に害を与えないかぎり、他人には愚かな行動、不合理な行動、誤った行動だと思われても、他人に妨害されることなく自由に行動できなければならない。(p.33)

個人の好みと個人のみに関係する点には、社会が干渉すべきでない(p.191)

ミルのいう「間接的」は微妙だ。例えば「穀物商は貧乏人から搾取している」と出版物に書くのは間接的だが、興奮した群集に演説で主張するのは「直接的」であり、刑罰の対象になりうるとしている。
別の例では「飲酒は社会の治安を悪化させるので個人の領域ではない」との主張に対し、ミルは「個人の領域を狭く捉え過ぎだ」と批判している。この当たりの線引きは明確でない。

●個人の尊重

なぜこのような原則を基準にするかといえば個人の尊重(個人の尊厳)のためだ。個人の尊重がミルの根本的な価値。第3章で議論されている。ミルは次のようにいう。個人の尊重は広く一般に支持される考え方。個人を尊重するため国家の権力の限界を定める必要性は認識されている。しかし、今は権力の行使の限界を定める基準が決まっていない。

多数派の思想と習慣を社会全体の行動の規則とし、刑罰以外の方法を使って反対派に強制しようとする動きに対して、さらには、多数派の習慣と調和しない個性の発展を妨げ、[…]ひとつの規範にしたがって性格を形成するよう社会の全員に強制しようとする動きに対しても、予防策を講じる必要がある。(p.18)

【第2章 表現の自由

ミルは表現の自由の根拠として人間の限定合理性(人は誤りをおかす)*1を挙げている。

議論を禁止するときはかならず、自分の無謬性を想定することになるのである。[…]人間が間違いをおかしやすい事実は一般論としてはつねに認識されているが、具体的な問題を扱う際には、はるかに軽視されている。(p.45)

人間の判断の強みと価値はすべて、たったひとつの性格、間違っていたときにそれを正すことができるという性格に依存しているのだから、人間の判断に頼ることができるのは、間違いを正すための手段がつねに用意されているときだけである。(p.51)

人は無謬ではないこと、正しい意見のほとんどは真理の一面をつかんでいるにすぎないこと、反対意見を完全に自由に比較した結果でないかぎり、意見の一致は好ましくないこと[…]といった原則は、意見に適用できるのと変わらないほど、行動にも適用できる。(p.127)

数学の真理には特異な性格があり、論拠はすべて一方の側だけにある。[…]だが、意見の違いがありうる問題では、対立する意見のさまざまな根拠を比較した結果によって、真理が決まる。自然科学の分野ですら、ひとつの事実について、正しい理論とは違う説明がいつも可能である。たとえば、天体の運動については地動説に対して天動説があ[る](p.85)

表現の自由が役立った例としてルソーを挙げている。ルソーの主張(「自然に帰れ」)は18世紀の主流だった合理主義(「近代人は古代人より進歩している」)より多くの誤りを含んでいた。しかし主流の合理主義に含まれていなかった真理を含んでいたため「良い意味でのショックを与えた」。

●道徳

法と道徳の分離を主張している。このあたりもリベラリズムらしい。
人びと(特に支配階級)の感情[価値観]がその社会の道徳を決定している。その道徳を遵守させるための刑罰が定められている。刑罰でなくとも世論による制裁がある。

どれほど不道徳だと考えられている主張であっても、それを倫理的な確信の問題として表明し議論する自由が完全に認められていなければならない。(p.43)

キリスト教徒はみな、この教え[新約聖書に書かれている教え]を神聖なものと考え、律法として受け入れている。しかし実際には、この教えを基準として自分の行動を律しているか判断しているキリスト教徒は一千人にひとりもいないといっても、言い過ぎではない。実際に行動の基準にしているのは、自分の国や階級、宗教団体の習慣である。(p.95)

論争者がおかしうる罪悪のうち最悪のものは、自分と対立する意見をもつものは悪人、不道徳な人間だと決めつけることである。(p.122)

功利主義

本書では現在でいう功利主義らしい議論はない。しかしミルは功利主義に基づいていると言明している。

効用こそが、倫理に関するすべての問題を判断するときの最終的な基準だとわたしは考えている。(p.30)

賢明な功利主義者のアリストテレス(p.60)

アリストテレスはミルにしてみれば功利主義者なのか。ミルも美徳を主張しており、功利主義アリストテレスには矛盾がないようだ。
キリスト教の道徳はほとんどが消極的で「〜するな」ばかり。「〜せよ」という積極的なものはほとんどない。言い換えると「悪徳の抑制」ばかりで、「美徳の追求」がない。キリスト教には「公共に対する義務」という考えがない。
またミルは個人のみに関係する徳は社会的な徳より重要性が低いとも述べている。

【第3章 個人の尊重=個性の発揮】

ミルの価値判断が明らかにされている。

人間の目的、つまりあいまいで一時的な欲求で思いついたのではなく、理性によって永遠不変のものとして規定した目的は、自分の能力を一貫性のある完全な全体へと、最大限に調和を維持しながら最高度に発展させていくことである(p.130)

人間が高貴で美しいといえる人物になるのは、個性的な性格をすべてなくして画一的になることによってではない。他人の権利と利益をおかしてはならないという条件のもとで、個性的な性格を育て際立たせることによってである。そして人間の行うことはすべて、それを行う人の性格を反映するので、個性を育てていくことによって人間の生活は豊かになり、多様になり、活発になり、[…]人類がはるかにすばらしいものになる。(p.141)

人間の目的は個性の発展ということ。そのためには「『自由と状況の多様性』という二つの条件が必要であ[る]」(p.130)

個性の発揮といっても現実には難しいことをミルは指摘している。個人が自分の好みが分からなくなっているため。

習慣になっているもの以外には自分の好みを思いつけなくなっているのである。(p.138)

その理由として他人(特に自分より豊かな人)の習慣と比較して、それに合わせようとする傾向を挙げている。より根本的な理由は<自分の頭でものを考えない>からだろう。

自分の生活の計画を自分で選ぶのではなく、世間や、身近な人たちに選んでもらっている人は、猿のような物真似の能力以外に、何の能力も必要としない。自分の計画を自分で選ぶ人は、能力のすべてを使う。現実をみるために観察力を使い、将来を予想するために推理力と判断力を使い、決定をくだすために識別能力を使う必要があるし、決定をくだした後にも考え抜いた決定を守るために意志の強さと自制心を発揮する必要がある。(p.133)

ヨーロッパが中国と比べ停滞を免れた理由は「性格と文化に驚くほどの多様性があること」(p.162)。しかし、現在のヨーロッパは多様性を失ってきている。理由として普通教育、民主主義、交通手段の発展。交通手段の発展が渋い。

【第4章 侵害原理】

序章とほぼ同様の形で原則が再度示される。ただ、ここでは侵害原理を守るような社会を成り立たせるため、個人が社会に対し義務を負うと述べている。あとは原理の適用例。これは第5章と同じ。

【第5章 侵害原理の適用例】

まず侵害原理の再確認。その後は、再び原理の適用例。例えば、飲酒を違法とすべきか、安息日を法定すべきか、モルモン教の一夫多妻制を違法とすべきか、売春や賭博は自己決定として保護されるか。

【その他】

国家の権力を制限する方法として政治的自由(参政権)と立憲主義

有責になるのは他人に危害を加えたとき。他人に危害が及ぶのを防がなかったときに有責になるのは例外的。

宗教改革はルター以前に少なくとも二十回は起こっており、そのたびに鎮圧されている。(p.68)

十分に研究し準備したうえで自分で考え抜く人は、その意見が間違っていた場合ですら、自分で考えようとしないために正しい意見を鵜呑みにしているにすぎない人よりも、真理に大きく貢献する。(p.80)

耳に痛いお言葉。

ある人物が[…]ある種の行動をとり続けるので信頼していいと他人に思わせた場合、そして、その点の期待と予測に基づいて人生の計画の一部を賭けるよう促した場合、その人に対する道徳的な義務が新たに生じるのであり、この義務は[…]無視するわけにはいかない(p.229)

契約締結過程の信義則上の義務のような話。

【参照文献】

オーギュスト・コント『実証政治学体系』
プラトンソクラテスの弁明』
アレクシス・ド・トクヴィル『旧体制と大革命』(1856) ※最新作と紹介されいる。ミルとトクヴィルが同時代人だとわかる。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (日経BPクラシックス)

自由論 (日経BPクラシックス)

*1:限定合理性はハーバート・サイモンの提唱した概念。「人は誤る」という理性への懐疑は自分の好きな思想家に共通する特徴だと思う。カール・ポパーもこの点を強調している。ソクラテスの「無知の知」をよく引き合いに出す。あとはラッセルやポパーハイエクが影響を受けたと思われるデイヴィッド・ヒュームにおいて理性への懐疑が強い。理性への懐疑と逆に理性への信頼が強いのがヘーゲルマルクス。だからラッセルやポパーハイエクマルクス主義が大嫌い。自分もその影響でマルクス主義が嫌い。