長谷部恭男『法とは何か』

2011年に出版された本を紹介するシリーズの45冊目。長谷部恭男氏は東京大学教授、法学者。専門は憲法芦部信喜氏と樋口陽一氏の門下。自分のリベラリズムについての知識は多くを長谷部氏に拠っている。憲法学の知識も。長谷部氏のスゴいところは憲法学に法哲学・政治哲学だけでなく新制度論的な観点を持ち込んでいるところだろう。そこがお気に入りの理由。例えば、経済学・政治学の公共選択論やゲーム理論など。
本書も憲法学というより法哲学の話。類書が少ないので読む価値ありといえる。

法とは何か---法思想史入門 (河出ブックス)

法とは何か---法思想史入門 (河出ブックス)

長谷部恭男『法とは何か』(2011)河出書房 ★★★★

法学。いつもの長谷部恭男氏。本書は副題にあるように「法思想史入門」。途中までだが。

本書の大まかな構成は第1部が社会契約論でホッブズ、ロック、ルソー、カント。第2部がケルゼン、ハーバート・ハート、ドウォーキン。ここまでは法思想史っぽいがここから、法の支配(第9章)、憲法制定権力(第10章)となっていく。こうなると『比較不能な価値の迷路』(2000)などと同じ。第3部は民主主義について。プラトンアリストテレスが出てくる。最後はソクラテス

本書の評価だが、法思想史というテーマはいいと思う。長谷部氏もはしがきで「類書がない」と言ってる。それはそうなのだが、どうも本書は読みにくい。例えば、導入で『星の王子さま』の話をしている。ただ、結局はいつもの国家の必要性という話につながる。この導入は分かりづらい。「最初から国家の話をすればいいのでは?」と思った。他の例は各章末に付されている「文献解題」。これが解題になっていない場合が多い。これも読みにくい。
ということで「内容自体はよいが、編集の問題がある本」というのが個人的な印象。といってもやはり社会契約論をはじめ内容はよいし、文献解題も参考にはなるし、ということで★4つとしておく。

●国家の必要性とは何か?
  1. 国家の方が専門知識がありよりよい判断ができるから
  2. 調整ゲームを解決できるから

長谷部氏お得意の公共財と囚人のジレンマが出てこない。

●なぜ法に従うのか?

国家の必要性と同様の問題。

  1. 国家の方が専門知識がありよりよい判断ができるから
  2. 調整ゲームを解決できるから

しかし一般的に当てはまると限らない。よって「一般的に法に従うべき」とは言えない。個別具体的に従うべきか判断する必要がある。

●公私の区別

比較不能な価値に当たる部分は国家が関わらない<私>の領域とする。例えば宗教。
なぜ公私を区別するのか。比較不能な価値があるから。自分の効用関数は自分がいちばん分かっているからという理由付けもある。
ルソーの一般意志・特殊意志は公私の区別に対応する。
日本国憲法では一般意志は「公共の福祉」。人権は公私の区別。例えば、思想良心の自由、信教の自由、プライバシーの権利。
古代ギリシャには公私の区別がない。

ホッブズ
  1. なぜ社会契約が必要なのか。暴力・恐怖から逃れるため。
  2. 社会契約の性質は何か。自然権を相互に放棄する。
  3. 政府はどこまで権限があるか。広い権限。

囚人のジレンマによる国家の必要性。自然状態は囚人のジレンマの繰り返しゲーム。
ここでやっと出てきたか。

●ロック『統治二論』
  1. なぜ社会契約が必要なのか。財産についての争いを解決するため。財産とは自己の労働の対価。全人類の共有物である<世界>から個人の所有権が生まれる根拠を示した点がロックの独創性。
  2. 社会契約の性質は何か。紛争解決のための裁判・執行権を政府に信託する。裁判・執行は自然法(神の法)に基づく。
  3. 政府はどこまで権限があるか。狭い権限。権限を信託した個人に権限逸脱の判断権がある。逸脱と判断すれば抵抗できる抵抗権もある。逸脱か否かは神が知っており、正しい抵抗だったか来世で神によって裁かれる。

ロックからキリスト教の部分を切り離したものが功利主義の起源といえる。キリスト教以外のメンバーも含めたものがリベラリズムの起源といえる。ホッブズは政府に権限を認め過ぎたためリベラリズムとはいえない。
ロック以降は権限逸脱を個人が判断できるとは考えられなかった。ルソーは<立法者>が一般意思を判断できるとした。リベラリズムは判断できないので、個人に侵すことができない権利があるとした。
やっと人権が出てくる。

●ルソー『社会契約論』
  1. 社会契約を結んで作った政府のせいで個人の自由が害されている。
  2. 社会契約の性質は何か。全員が一般意志に従うこと。特殊意志を合計しても一般意志にならない。一般意志に合致した立法であれば個人の自由を侵害しない。一般意志は議論して投票すれば多数決で明らかになる。長谷部氏はいつものコンドルセの定理から説明している。

ただ、大衆を啓蒙する<立法者>が必要。例えばモーゼ、モハメッド、カルヴァンだそうだ。
結局、宗教家のようだ。長谷部氏によれば、そのような宗教家がいなければ大衆は自己利益を図るためだけに投票するので一般意志は明らかにならず政治はうまくいかないという。へぇ。


硬性憲法はプレコミットメント。
憲法学のジャーゴンなのか知らないが「プレ」って不要なんじゃないか?

●ケルゼン

事実と規範を峻別。これはヒュームが初めに提唱した。ヒュームは事実から規範は導けないとした。
法は一般には規範と解される。しかし、事実と解する説もある。この説は例えば「飲食店で喫煙してはならない」という条例を規範ではなく「喫煙すると警察に検挙され裁判所で罰金を課されるかもしれない」という予測だと主張する。
ケルゼンは道徳的判断は人それぞれなので議論すべきでないとして棚上げした。長谷部氏は道徳的判断は意見が対立するが、議論すべきでないという極端な結論を導くものではない、とする。
その後、根本規範の話。根本規範からの委任を受けて法は成り立つ。根本規範は人びとが前提として受け容れている。

●ハート

ケルゼンの根本規範に対し、裁判官・法務官僚などが<認定ルール>を許容し実践しているから法は成り立つと主張する。<認定ルール>とは2次的ルールの中でも何が(実定)法かを認定するルール。1次的ルールと2次的ルールの区別。

ドウォーキン

ドウォーキンは次のようにハートを批判した。突き詰めて考えれば、道徳的判断をしなければ何が実定法かを認定できない。つまり難事件は道徳的判断なしには解決できない。ハートは「法の欠缺」→「裁判官の法創造」というが、実際は裁判官も道徳的判断という法に拘束されている。
ここで道徳とはすべての人を説得できる行動の理由付け。長谷部氏によれば、実定法は道徳の一部。しかし、法の欠缺の場合は、裁判官が実定法の背後にある道徳から判断する。
長谷部氏はハートとドウォーキンの意見には大きな違いはないとする。自分も同意だ。また長谷部氏はドウォーキンは価値の比較不能性を甘く見ているとする。長谷部氏はハートの忠実な後継者ジョセフ・ラズを好んで引用するのでドウォーキンよりハート寄り。

宮沢俊義

法の科学とは現実の法を認識する作業。その目的は、現実と一致すると標榜しつつ実は一致しない、現実を覆い隠す役割を果たすイデオロギーについて、その現実との不一致を暴くこと。

【参照文献】※多い。すべてをメモしているわけではない

長谷部恭男『憲法の理性』 ※この本がよく参照されてる
サンテグジュペリ星の王子さま
アイザィア・バーリン『理想の追求』
ジョセフ・ラズ『自由と権利』『権威としての法』
モンテーニュ『エセー』
リチャード・タック『トマス・ホッブズ』 ※決定版
トマス・ホッブズリヴァイアサン』水田洋訳
ジョン・ダンジョン・ロック』 ※決定版
ジョン・ロック『完訳 統治二論』加藤節訳
ルソー『社会契約論』桑原武夫
ヘーゲル『法の哲学』上妻精訳
ジョン・ロールズ『正義論』
H・L・A・ハート『法の概念』
レーニン『国家と革命』
ハンス・ケルゼン『法と国家の一般理論』尾吹善人訳
ロナルド・ドウォーキン『法の帝国』 ※主著
アリストテレス『ニコマコス倫理学高田三郎
アリストテレス政治学』牛田徳子訳
宮沢俊義憲法の原理』
トクヴィルアメリカのデモクラシー』
ニーチェ善悪の彼岸
アラステア・マッキンタイア『美徳なき時代』
ロバート・ノージックアナーキー・国家・ユートピア

比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論

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