自ら飲酒し検知紙捏造か、警部補を逮捕:警察の組織維持のためのノルマ制

読売新聞(関西版)より。
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120307-OYO1T00188.htm

自ら飲酒し検知紙捏造か、警部補を逮捕…大阪府警
虚偽交通切符、容疑は否認
 大阪府警泉南署で飲酒運転の取り締まり時、捏造したアルコール検出数値で交通切符などが作成された事件で、府警は6日午後、同署交通課警部補・山下清人容疑者(57)を証拠隠滅、虚偽有印公文書作成・同行使の疑いで逮捕した。山下容疑者は「一切やっていない」と否認している。使用された測定器は、その場で数値を操作することはできず、府警は、山下容疑者が事前に自ら飲酒し、基準値以上の数値が印字された記録紙を用意していた可能性が高いとみている。

 府警監察室の発表では、山下容疑者は昨年9月29日午後1時55分頃、同府泉南市内で、ミニバイクを運転していた60歳代の無職男性に飲酒検問した際、呼気1リットルあたり0・15ミリ・グラムのアルコールが検出されたように数値を捏造し、それに基づいて交通切符や飲酒状況などを記載した書類を作成した疑い。

 監察室によると府警の取り締まりマニュアルは、測定器に数値が表示される場面をドライバーに確認してもらい、数値や測定日時が印字された記録紙を示すよう規定。山下容疑者はこの男性の呼気を検知した際、測定器を隠すように男性に背を向けて作業し、記録紙だけを提示したという。

 測定器は、数値の改ざんはできないが、日時は自由に設定できる。府警は、山下容疑者が、日時を操作した上で、自分で飲酒するなどして0・15ミリ・グラムの数値が印字された記録紙を用意し、取り締まり時にすり替えて提示した可能性があるとみている。

 男性は翌10月、岸和田区検に略式起訴され、罰金を納付。しかし、同区検の調べの中で、書類に記載された飲酒量が、摘発時は「350ミリ・リットルの缶ビール1本」と申告したのに、「500ミリ・リットル」になっていたことが判明。男性が直接、山下容疑者に抗議したが、謝罪だけで放置されたため、11月に改めて泉南署に訴えた。
[・・・]

(2012年3月7日 読売新聞)

【追記】

2ちゃんまとめサイトでも紹介されていた。元記事は違うが。http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1700630.html

泉南署全体で去年、飲酒運転の検挙は79件ありましたが、6割以上にあたる51件は山下容疑者が担当したものでした。その後の取材で、山下容疑者は去年、「交通違反の取り締まりが優秀だ」として、交通部長賞を受賞していたことが分かりました。


マッチポンプ(自分でマッチで火をつけて自分でポンプで消す)ってやつだ。今回はこの事件について考えてみた。

●なぜこのような事件が起こるのか?

自分の答えは<警察にノルマ制があるから>というもの。警察のノルマ制については以前「TPP著作権問題:非親告罪化は警察のノルマ稼ぎ逮捕につながるおそれ」というエントリで触れた。そこでは魚住昭・大谷明宏・斎藤貴男三井環ほか『おかしいぞ!警察・検察・裁判所』(2005)を参考文献としてノルマ制について触れた。今回も本書からノルマ制に関する発言を載せておこうと思う。

大谷明宏 自動車警ら隊も仕事がない組織を維持するために架空の犯罪をでっち上げていたら裏金ができてしまったのではないか。

実際に交通事故件数は減少傾向(交通安全白書より)。

清水勉 警察もノルマ漬けで営業マンと変わらない。警察庁が総売上を決めて各県警に分配して、さらに各警察署に分配して・・・

大谷明宏 強化月間を止めたほうがいい。ゴミの放火犯なんか10件やったと自白すると100件くらいやったことにする。発生件数より多くなることも。

●なぜ警察にノルマ制があるのか?

組織維持のためだろう。上で大谷氏も同じことを言っている。
「いやー、これだけ飲酒運転が増加している現状を考えると検問も強化しなくちゃダメですねぇ。我が署でも交通課の人員増強を検討すべきです。来年度の予算の方、よろしくお願いしますよ」という感じで。
この組織の自己保存の本能とでもいえる行動は官僚制であればどこにでも見られる光景だろう。しかし日本ではこの官僚制の逆機能(欠点)が強すぎるという印象を受ける。

●なぜ日本では組織維持の本能が強いのか?

自分もこの問いへの答えをもっているわけではない。ただいつもの近代の問題と関係があるような気がする。そこで以下ではこの組織維持と近代の問題について書いてみたい。

●近代の問題とは何か?

日本の近代の問題とは<日本は近代社会ではない。高度成長で工業化は達成したがリベラルデモクラシー(とその基礎にある個人主義)は根付かなかった。日本は近代社会になり損ねたんだ>というような議論をいう。夏目漱石ら明治の文豪にはじまり現在の橋本治氏まで日本の思想家はずーっとこの問題を扱ってきた。


「日本は近代社会ではない」ということは「日本人は近代人ではない」ということ。「近代人ではない」ということは「自分の頭でものを考えられない」ということ。「自分でものを考える」とはどういうことか。主には「合理主義的に考える」ということだ。合理主義とは何か。主には目的合理主義だ。目的合理主義とは目的に対してそれを達成するために適切な手段を選んで実行する考え方。

●組織維持のノルマ制と近代の問題はどう関係するのか?

ここまで言い換えてくると組織維持のノルマ制と近代の問題がつながってくる。
本事件では交通事故防止という目的に対して飲酒検問という手段があるはずだった。これならちゃんと目的合理主義。しかし、実際は手段の目的化(フェティシズム)により、目的合理主義が腐っていたということだ。もちろん飲酒運転をでっちあげても交通事故防止という目的には何の貢献もしないから目的合理的ではない。

●補足(哲学や経済学・経営学政治学・法学との関係)

フェティシズムによる非目的合理的な行動は一連の企業不祥事(雪印とかダスキンとか)でもよく見られた。最近ではオリンパスだろう。目的合理的に考える近代人の英国人社長と前近代人の日本人経営陣。オリンパスの不祥事は海外から「日本はまだまだ資本主義社会じゃないな。信用できない」と見られたかもしれない。
フェティシズムが生じるというのは、警察にとっての交通事故防止という大きな目的が警察署や警察官個人のノルマ達成という小さな目的に矮小化させられてしまうということだろう。
なぜ大きな目的が維持できないのか。(大きな目的に対して)目的合理的に考えられないから小さな目的(組織維持)に走るのか、小さな目的に走るから目的合理的に考えられないのか、はたまた両方なのか。よく分からないが、ともかく組織維持のためのノルマ制というのは「近代人になれない日本人」をよく表しているように思える。
目的合理的に考える近代人(の組織)なら「もう交通事故は減ってきたんだから、もっと対策が必要な部署にヒトを再配置しましょう」となるはずだが、こうならないのが日本らしいと思う。これはもちろん経営でも政治でも同じ。日本政府・日本企業はいつまで経っても構造改革ができないので非効率な資源配分が続いている。経済学者が政府や企業を批判する主な根拠はこの非効率な資源配分だ。


繰り返しになるが、なぜこんなに(大きな目的に対して)目的合理的な行動がとれないのか不思議だ。日本の組織はあまりに大きな目的を軽視しすぎるように思える。こうした指摘は例えば、郷原信郎氏(弁護士)が企業不祥事についてしている。
一方、大きな目的の矮小化というのは日本だけに限らず近代の問題の大きな部分で、マイケル・サンデルの師匠のチャールズ・テイラー(マギル大)などがよく論じている。大きな目的の矮小化問題は哲学的には(自分の言葉では)<全体性>への信仰の問題。<全体性>への信仰の問題は経営学的にいえば企業文化の問題。
社会科学的に言えば、テイラーらコミュニタリアンの議論はコミュニティを自己利益のために利用する個人(フリーライダー)ばかりになりコミュニティが崩壊し、その結果個人も沈むという問題。社会的ジレンマともいえる。
コミュニタリアンはサンデルを見れば分かるように目的論を重視する。目的論に依って「大きな目的から個々の行為が正義にかなうか評価する」という方法は今回述べた問題を考える上で参考になる。目的論的思考は法学の採用する基本的な思考法でもある。

「ほんもの」という倫理―近代とその不安

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思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本 (講談社現代新書)

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