中国作家、アップルに6億円超請求 著作権侵害訴え:iTunes Storeの抱える間接侵害のリスク

日経新聞より
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C9381959FE3EAE2E2858DE3EAE2E1E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2

中国作家、アップルに6億円超請求 著作権侵害訴え
2012/3/18 21:05

 中国の作家団体が、米アップルのiPhone(アイフォーン)など携帯端末向けソフト配信サイト「アップストア」で著作を無断販売されたとして、同社に損害賠償を求めた訴訟の請求額が計5千万元(約6億6千万円)に達した。新華社が18日伝えた。

 昨年からの数度の提訴で、請求額が膨らんだという。同団体は人気若手作家の韓寒氏ら22人の小説など計95作品の海賊版がアップストアで販売され、著作権が侵害されたと主張している。

 中国での海賊版や偽ブランド品の横行を非難してきた米国の有名企業が、知的財産権をめぐり逆に提訴された。アップルは「知財権保護の重要性は理解している」とし提訴には「適切に対応する」とコメントしたという。

 中国ではアップルの多機能端末iPad(アイパッド)の商標権をめぐる訴訟も続いている。(北京=共同)

これは著作権法間接侵害の事件と思われる。直接侵害しているのは海賊版電子書籍アプリの作者だからだ。アップルはそのような作者に"場を提供"した者として間接侵害に問われていると思われる。


間接侵害については以前ウィニー事件に関連して触れたが(「ウィニー」開発者、無罪確定へ:幇助犯成立の基準は高裁と最高裁で同じなのか?)、今回もこの問題を取りあげたい。間接侵害は著作権法において重要な問題だからだ。
なお、なぜウィニー事件と本件が同じ間接侵害の問題になるかといえば、winnyもアップルも著作権侵害の"場を提供"しているからだ。


私が「本件に似てるな」と思った判決としてアメリカのチェリー・オークション事件(1966)というのがある*1この事件はチェリー・オークション社が主催したレコードのフリーマーケット海賊版レコードが多数販売されており、そのレコードの著作権者がチェリー社を著作権侵害で訴えた事件。
この事件の判決に照らしてみるとiTunes Storeには著作権(や商標権)の間接侵害で責任を追及されるリスクのリスクがあると思われる。以下、文科省文化審議会のサイトからチェリー・オークション事件の解説を引用する。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/gijiroku/013/06073103/003/005.htm (文科省)

1.事案の概要

原告は,録音物に対して著作権者である。被告[チェリー・オークション]は,フリーマーケット(flea market)の運営会社とその管理人たちである。被告のフリーマーケットへの出店者が違法複製レコードを販売していた。警察当局(保安官sheriff)の捜索によって38,000枚の違法複製レコードが押収されたこともあり,その後も警察当局からなおも違法複製レコードの販売が続いているので協力するよう求められてもいた。なお,被告は,出店者からは定額の出店料を得ていたほか,入場者から入場料を取っていた。
 原告は,カリフォルニア東部地区連邦地方裁判所(地裁)に被告を著作権侵害および商標権侵害で訴えたが,地裁は原告の主張自体が失当であるとして請求を却下した。控訴を受けた第9巡回区連邦控訴裁判所(控裁)は,著作権侵害に対する代位侵害および寄与侵害ならびに商標権侵害に対する寄与侵害を認め,地裁判決を破棄し差し戻した。

控訴審は代位侵害と寄与侵害を両方認めている。代位侵害と寄与侵害はどちらも間接侵害の類型。なぜ複数あるかというと本判決の示すように成立要件が違うため。

2.代位侵害についての裁判所の判示

「地裁の見解によれば,監督と経済的利得の両方の要件に関して,被告は,貸与物件に対する占有権を借地人に渡した不在地主と同じ地位にある。この不在地主のアナロジーは,地裁で主張された事実(当裁判所は控訴においてこれを前提にしなければならない)にそぐわない。主張によれば,出店者は施設内に小さなブースを占有していたが,被告はその施設内を監督し巡回していた。訴状によれば,被告は,理由の如何を問わず販売を停止する権限を有しており,また,その権限によって施設内の出店者の行為を監督する能力を持っていた。また,被告は当該フリーマーケットを宣伝し,顧客の来場を監督していた。監督の点からいえば,本件における主張は,シャピロ事件やガーシュウィン事件のそれと顕著な類似性を有している。……したがって,原告が十分な監督の事実を主張しなかったとの根拠に基づいて,地裁が本件における代位責任の請求を却下したのは正当ではない。
 つぎに,当裁判所は,経済的利得の争点を検討する。……しかし,原告が主張した事実は,被告が入場料,売店売り上げおよび駐車場料金から実質的な経済的利得を得ており,そのすべては,特売場価格で偽造レコードを買いに来る顧客から直接流れ込むものである。原告は,十分に直接的な経済的利得を主張している。
 ダンス・ホールの事案に始まる一連の裁判例は,著作権を侵害する実演が潜在的顧客を引きつける手段を強化するものである場合に事業運営者に代位責任を課すものであるが,当裁判所の結論はこれによって補強される。……本件においては,被告のフリーマーケット海賊版レコードが販売されることは,ダンスホール事件とそれに続く事件における違法音楽の演奏と同じように客「寄せ」である。原告は著作権の代位侵害の請求事実を主張している。」

代位侵害については考慮要素として「監督と利益性」を挙げている。これは日本のカラオケ法理に通じる。

3.寄与侵害についての裁判所の判示

「寄与侵害は,不法行為法に起源を有し,他人の侵害行為に直接寄与したものは責任を負うべきであるとの観念に由来する。……
 原告が本件における認識の要件を適正に主張したことに疑問の余地はない。議論のある争点は,被告が侵害行為に重要な寄与を行ったことを原告が適正に主張したか否かである。当裁判所は,本件における主張が侵害行為に対する重要な寄与を示すに十分であると認定するのに,ほとんど困難がない。実際,万一当該フリーマーケットが当該サポート・サービスを提供していなければ,当該侵害行為が大量に生じることは困難であったと思われる。これらのサービスは,とりわけ,場所,電気電話等,駐車場,宣伝広告,トイレおよび顧客の提供を含む。……
 明らかに,地裁は,侵害に対する寄与は被告が『偽造製品の販売を明確に促進もしくは奨励しまたは何らかの方法で侵害者の身元を隠した』場合のような状況に限られるべきであるとの見解を取った。…地元の保安官が適法に被告にその出店者についての基本的身元情報を収集提供するよう求めたが被告がこれに従わなかったとの主張があるので,被告は,地裁自身の立てた基準の最後の部分(侵害者の身元を隠す場合に責任を認める)にぴったりと当てはまるように見える。さらに,当裁判所は,侵害行為を知って場所や施設(site and facilities)を提供することは寄与侵害責任の成立に十分であるという,Columbia Pictures Industries, Inc. v. Aveco, Inc., 800 F.2d 59(3rd Cir. 1986)事件における第3巡回区の分析に賛成である。」

代位侵害については考慮要素として「場所や施設の提供」を挙げている。「サポート・サービスの提供」という言葉もネットビジネスに馴染む。


このような判示事項を見るとチェリーオークション社とアップルにどれだけの違いがあるか疑問になってくる。App Storeで売っているデジタルデータに関してアップルは「監督と利益性」も「場所や施設の提供」も具備するように思える。よってアップルはこれらのデジタルデータに関して著作権の代位侵害・寄与侵害のリスクを抱えているといえる。

*1:Fonovisa, Inc. v. Cherry Auction, Inc., 76 F.3d 259 (9th Cir. 1966)

なぜ出版社は「著作隣接権」が欲しいのか?:著作権法第90条の簡単な解説

最近、著作隣接権が話題になっています。

なぜ出版社は「著作隣接権」が欲しいのか | 赤松健の連絡帳
http://kenakamatsu.tumblr.com/post/19395239269/rinsetsu

なぜ出版社は著作隣接権を欲しがるのか?に対する小学館M田さんによるコメント
http://togetter.com/li/274017

今回は著作権法90条について簡単に言及しておきたいと思います。教科書を調べて書いたわけではなく手持ちの知識で書いたメモですが。

1.著作権法第90条の簡単な解説

第九十条  この章の規定は、著作者の権利に影響を及ぼすものと解釈してはならない。

この条文の一般的な解釈(だと私が考えるもの)は

著作権者と著作隣接権者は互いに独立して自身の権利を行使できる

ということです。独立して自身の権利を行使するというのは、

  1. 互いに自由に自分で利用できる
  2. 互いに自由に第三者の利用を妨げられる

ということです。「妨げる」というのは「『侵害だ』と言える」ということです。「第三者」というのは簡単に言えば海賊版でしょう。
「自分の権利なのに自由に行使できない場合なんてあるのか」と思われるかもしれませんが、例えば権利が共有の場合は自分の権利でも自由に行使できません(著64、65条)。
また90条の文言を見ると「著作権者優位」のように読めますが、実際は著作権者と著作隣接権者は独立対等と解釈するのが一般的だと思います。例えば、次のような裁判例があります。BRAHMAN事件(知財高判H21.3.25)。

被告は,演奏家は,当該楽曲の著作権者に演奏契約上の顕著な違反又は人格権の侵害がない限り,当該楽曲の著作権者の意向に反して,著作隣接権の行使として,演奏を固定したレコードの製造の差止めを求めることはできないと主張する。
 しかし,演奏したことにより有する演奏家著作隣接権と著作したことにより有する著作権とは,それぞれ別個独立の権利であるから,演奏家著作隣接権が,当該レコードに係る楽曲について有する著作権によって,制約を受けることはない。実演家は,当該楽曲の著作権者等から演奏の依頼を受けて演奏をした場合であっても,著作隣接権に基づいて,当該楽曲の著作権者に対して,当該演奏が固定されたレコードの製造,販売等の差止めを求めることができることは明らかであり,被告の上記主張は,主張自体失当である。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090327115003.pdf

2.「なぜ出版社は「著作隣接権」が欲しいのか?」

今回話題になっている出版社の著作隣接権が何かハッキリしないので、仮に電子化に関する著作隣接権であるとして話をします。

赤松氏の「なぜ出版社は「著作隣接権」が欲しいのか?」という問いに対する答えは次の二つでした。

これは、出版社に著作隣接権が自動的に発生すれば、

  1. 電子化するとき、一つ一つの作品ごとに契約を結ばなくてもよくなるので、スピーディに電子化できる。(=出版社が速やかに電子書籍を作れれば、作家も儲かるはず)
  2. 海賊版を訴えるときに、いちいち作者に確認しなくても、出版社の判断で訴えることが出来る。(=出版社が作家の代わりに海賊版をドンドン訴えてあげれば、作者も喜ぶはず)

これに対し小学館の人のコメントは1.については、

「電子化するとき、一つ一つの作品ごとに契約を結ばなくてもよくなる」ってのが、「電子書籍を販売するときに契約を結ばなくても」という意味ならダウト。そんなわきゃない。

2.については、

「昔のマンガを、他の出版社で再刊行したいとき、前の出版社に妨害されない?」→そんなことをする権利を著作隣接権は認めていません。


どちらが正しいか考えてみます。上の解釈にしたがうなら、1.については電子化可能つまり赤松氏が正しいとなるでしょう。
一方、2.については簡単に答えが出ません。不明だが、小学館の人が正しくなる可能性が高いとなるでしょう。仮に出版社に与えられる著作隣接権著作権者が利用許諾することについての同意権が与えられるなら、著作権者が前の出版社の同意を得ず他の出版社にした利用許諾は無効ということになり、前の出版社は再刊行を妨害できる場合があると思います。ただ、現在すでにあるレコード会社やテレビ局の著作隣接権にこのような同意権は認められていないので出版社にも認められない可能性が高いと思います。よって上の答えになります。
なお、同意権が著作権法で与えられなくても前の出版社が著作権者を契約でしばることはできます。この場合、契約に反して再刊行しても著作権侵害にはなりませんが。でも、この話はこの程度にしておきます。

3.著作権法自体の問題

あとこの90条が引き起こす問題について著作権法の重要な問題なので言及しておきます。その問題とはアンチコモンズの悲劇と呼ばれる問題で、権利が乱立して著作物が活用されなくなってしまうことを言います。権利処理が難しくなるということです。この問題の例は孤児著作物で、例えば昔のテレビ番組の一部に使われた音楽の著作権者の居所が不明なので番組自体が再放送できないとかそういった問題です。
赤松氏も指摘されています。

権利を持つ人数が増えるので、逆に面倒が起こりやすくなる。

著作権法の目的は「文化の発展」(著1条)ですが、そのための「文化的所産の公正な利用」(同)を妨げるのがアンチコモンズの悲劇です。「著作者等の権利の保護を図[る]」(同)のは重要でしょうが、これだけ権利の種類が多いのは知財法的にも特殊(異常)ですし「もっと整理できないものか」と個人的には思います。なので出版社に電子化についての著作隣接権を認める法案が仮にあるとしたら反対です。

哲学・宗教・文学は人生の無意味さに抗する試みである(チャールズ・テイラー)

最近読んだ本の中にこのブログでずっと取り上げている問題(<意味と強度>問題)についての根本的な言及を見つけたのでここにメモしておきたい。チャールズ・テイラー『今日の宗教の諸相』(2001)より。チャールズ・テイラーはカナダの哲学者でマイケル・サンデルの師匠。


哲学・宗教について。

いっさいのものには恐らく意味などないのだ、という憂鬱の近現代的なスタイルは、新しい脅威としてすでに認知ずみのものである。わたしたちはこれがすべての人にとっての脅威であることをよく認識している。我々は今では諸々の哲学や精神的な立場がすべて、この脅威に向けられたものであり、無意味さの感覚を反駁し、阻もうとする試みであると理解することさえある。宗教の歴史をこのプリズムを通して解釈し、有史以来の宗教をあたかも物事の本質的な無意味さにたいする一つの答えとして理解できるかのように考えるのは、よくある考え方である。わたしは、この考えこそウェーバーでは暗黙に採用され、ゴーシエではより明示的に採られている考えである、と論じたくなる。(p.35)


テイラーは文学の例としてシャルル・ボードレール悪の華を挙げている*1

ボードレールの「憂鬱な」詩は逆説的な解放を成し遂げる。彼が空虚な世界、険悪な鉛色の空を描くとき、わたしたちに課されている意味という重荷に一つの姿形が与えられ、それによって肩の荷が下りたような解放感が実現する。(p.34)

かつて[近代以前]は憂鬱、無感動、倦怠などの核をなす意味の喪失という突然の感覚は、ものごとの意味に疑いが生じないような一定の枠組みのなかで経験されるのが常であった。その枠組みのなかでは、神は存在し、善と悪は確定し、わたしたちの使命は否定しようがないものであった。ただ、そこでもなかには、そう感じることができない人がいる。その人は突然枠組みの外側に飛び出て、追放されてしまっている。[・・・]
ところが近現代の文脈では、この意味への保証がなくなってしまい、憂鬱はすべての伝統的・神学的・歴史的拠り所への疑いが可能となった世界において発生する。そのために、それは新たな形をとる。それは疑いの余地がない意味の宇宙からの拒絶や追放という感覚ではなく、むしろ決定的な無と言うべきものの予感、意味という最後の幻想が崩壊する最終的な幕開けの予感としての憂鬱なのである。それはわたしたちを新しい仕方で苦しめる、ということもできるだろう。(pp.33-34)

【関連エントリ】

今日の宗教の諸相

今日の宗教の諸相

悪の華 (集英社文庫)

悪の華 (集英社文庫)

*1:p.35で本書に言及

河野太郎「東電の値上げは断れます」は問題:ダブルスタンダードによる取引コストを考慮してない

河野太郎氏のブログより。
「東電の値上げは断れます」
http://www.taro.org/2012/03/post-1174.php

東京電力が、4月1日から電力料金を上げたいという手紙を、契約者に送っている。

具体的には、ビル・工場などの特別高圧(標準電圧20,000ボルト以上)および高圧(標準電圧6,000ボルト以上)で電気を契約している事業所が対象だ。[・・・]

受け取った企業もいると思うが、結論から言えば、これは断れる
[・・・]
もし、東京電力から料金値上げの手紙が来たら、その手紙に出ているあなたの現在の契約期間が終了するまでは、値上げに応じる必要はない。

なぜ断れるか?「断れない」という例外規定(特別法)がないからだろう。すると契約自由の原則に戻る。
なぜ原則に戻るかと言えば、電力供給契約も東電と顧客企業の私人同士の一般の契約だからだ。

原発派の河野氏が「断れる」と情報を広めるのは自由だが、これが全体最適には資さないと思われるので問題だ。河野氏全体最適を担う政治家であることからも問題だ。
なぜ全体最適に資さないかというと、取引コストが発生するからだ。以前のエントリ(「東電 実質国有化へ:賠償スキームと送発電分離案」)で、今のまま賠償を進めても取引コストが無駄にかかるだけだから早く国有化すべきだ、と書いたがこの件はまさに取引コストの例。

「ご了解いただけなければ折衝させていただいて、了解を頂ければ新料金にする」とのことだ。
[・・・]
そして、「東京電力から全てのお客様に電話をかけてご了解を頂く作業をしているところ」

全ての顧客企業と個別に交渉するということだろう。「ビル・工場などの特別高圧(標準電圧20,000ボルト以上)および高圧(標準電圧6,000ボルト以上)で電気を契約している事業所」って全国にいくつあるんだか。こんなことに東電社員の人件費を使うなら被災者への賠償に少しでもまわしてあげるべきなのに。もちろん人件費は総括原価方式ですべて電気料金に跳ね返ってくる。


以前のエントリでも言及したが根本的な問題は東電のダブルスタンダードだ。ここでダブルスタンダードとは、両立不可能な基準の適用を機会主義的に主張すること。
東電の場合は、これだけの災害を起こし、実質的に政府の公益事業のようになりながら、形式的には民間企業のままだということ。民間企業なら実質経営破たんしているわけだから倒産法にのっとって株主責任・債権者責任を追及すべきだ。公益事業なら国が立法により顧客企業との個別の交渉なんかせずに電気料金を徴収すべきだ(取引コストが削減される)。


河野氏飯田哲也佐藤栄佐久河野太郎『「原子力ムラ」を超えて』(2011)で東電のダブルスタンダードを批判している。まさに今回の契約と同様の需給調整契約(電力の需給が逼迫したとき大口需要家への電力供給を低減する契約)について河野氏はこう書いている。

経産省は[・・・]この需給調整契約は東京電力と契約者の民間契約なので、この契約に基づいた供給抑制については公表できないなどという。[・・・]原子力発電関係でもよく見られる「国策」と「民間事業者の商業行為」の使い分けだ。(p.71)

ここまで書いている人なんだから、取引コストを増大させるような情報を広めるよりダブルスタンダードをどうにかする方向に力を使って欲しいものだ。

【追記】

この例に見るような部分最適全体最適の不一致は社会科学上重要な概念だと思う。重要なので本ブログでも何度も取り上げている。また重要なのでいろんな分野でいろんな名前で呼ばれている。経済学では合成の誤謬社会心理学では社会的ジレンマ、生物学に由来するコモンズの悲劇という言葉も経営学や政治哲学などで使われる。ゲーム理論囚人のジレンマ部分最適全体最適の不一致の例としてよく挙げられる。

「原子力ムラ」を超えて ポスト福島のエネルギー政策 (NHKブックス)

「原子力ムラ」を超えて ポスト福島のエネルギー政策 (NHKブックス)

アメーバピグのコメント欄の子どもたちはtwitterで犯罪告白する大学生や放射脳の親と同じ前近代人

昨日のエントリ「アメーバピグが15歳以下を実質利用禁止:「子どものみなさんを守るため」は本当か?」を書くのにアメーバピグ公式ブログのコメント欄を見ていたが、気になったのは子どもたちが感情ベースのコメントばかりしている点。

やりすぎだと思うーw
課金者可哀想だろ
人にキモチ考えて

私は12歳です。ピグを信じてたのに・・・。

裏切られた感じです・・・。

これらのコメントは日本の教育がいかに間違っているかを表す例証だと思える。間違っているというのはいつもの近代の問題(日本は近代になり損ねた)。日本の教育がムラ社会に適合的で近代社会(ましてグローバル化した市場)には適さないものになっているということ。今回はこれについて書いてみたい。

1.なぜ前近代人なのか?

感情的なコメントでも特に「ヒトの気持ち考えて」というコメントが多い。これは「ヒトの気持ち」でどうにかなる問題(=私的な問題)とならない問題(=公的な問題)の区別がついていないのだろう。というか、すべての問題は「私的な問題」だと考えているのだろう。「ヒトの気持ち」でどうにかなるのはムラ社会のレベルだ。子どもにとってムラ社会は家族やクラスメイト。


一方、ネットは公的な空間だ。サイバーエージェントの今回の決定も公的(社会的)なものだ。そこでは「ヒトの気持ち考えて」いれば済む場所ではない。もちろん公的な空間でも「ヒトの気持ち考える」ことは重要で考えなきゃいけない場合がほとんどだろう。でもそれだけでは済まないということだ。このピグのスタッフブログのコメント欄もピグの仮想空間自体も公的な空間だ。ピグ上の自分の部屋や自分の庭は私的な空間と錯覚させるよう作られてはいるが。このような公的な場所でアメーバのスタッフに「ヒトの気持ち考えて」と家族や友達に言うように訴えかける子どもは公私の区別がついていないのだろう。一方でコメント欄で「ダメーバ死ね」とか「藤田[サーバーエージェント社長]ぶっ殺す」とか書いている子どももいるし、どちらにしろ公的という意識はなさそう。
公私の区別はリベラリズムの基本中の基本だ。リベラリズムは「私的な領域では各人好きにやって、自分の幸福を目指してていいよ。その代わり公的(社会的)な領域ではルール(法)にしたがって他人に迷惑かけちゃダメだよ」ということだからだ(「なぜ憲法で13条がもっとも重要なのか?」)。よく裁判の原告・被告が判決に対して「血の通った判決」などとコメントすることがあるが、このようなコメントも同じ理由だろう。法は公であり血が通う通わないの問題じゃないんだよねっていう。
ともかくリベラリズムは近代社会の基本中の基本なので、公私の区別がつかない人は前近代人ということだ。

2.子どもだけの問題か?

「とは言ってもまだ子どもじゃないか」と思われるかもしれない。しかし、この子どもたちの感情ベースの言動はそのまま大人たちにも見られるのではないか。自分が思い出したのは「」とか言い出す大人や放射"脳"な大人だ。「絆」なんて「ヒトの気持ち考え」れば原発問題が解決するみたいな考え方だし(「みんなで助け合ってこの問題を乗り越えましょう!」)、放射脳は合理的な判断を放棄して原発をすべて私的な感情で拒否する態度だし(「子どもがどうなってもいいのか!」)。やはり「子どもは大人の鏡」ということなんだろう。
こう考えると、twittermixiで犯罪告白する大学生はピグの子どもと絆・放射脳な大人の中間段階ということか。みんな前近代人という意味では一緒だ。今はピグをやってる子どもが、大学生になりtwitterで犯罪告白し、大人になり放射脳で被災者を差別する。自分にとってはすんなり腑に落ちる見方だ。

3.問題の原因は何か?

どうしてこんなことになってしまうのか。やはり教育の問題が大きいように思う。義務教育で感情教育されて(「ヒトの気持ちも考えなさい」)、マスコミで感情を煽られて(「被災者はこんなに可哀想なんです」)っていう生活をしてたら絆も放射脳もネット上の暴言も当然の結果のようにも思える。例えば、以前取りあげた粗食給食の件では給食調理員が「福島の子どもの苦労を実感して」と言って児童に主菜抜き給食を出していた(幼小中で「粗食給食」:リベラリズムに反する)。まさに「ヒトの気持ちを考え」させる教育だ。
子どもたちがこのアメーバの騒動をキッカケに「感情だけじゃダメなんだ」って思えればいいんだけど、コメント欄見るとムリだよなぁ。「日本の未来は暗そう」って感想しか浮かばない。


自分も子どもの頃は「大人はクソ」って思ってたし、今でも思ってるけど「大人はクソ」問題については、やはり公私の区別みたいな基本的なことを何も教えてくれなかった教育に主な問題があるかなという気がする。これからグローバル化がさらに進んで前近代人であることのデメリットがますます目立つようになるけど、この子どもたちは気づくだろうか。


以下、子どものコメントを紹介。

15歳以下の事も考えて下さい!大切な引っ越し前の大親友と楽しくずっと話せると思ったのに!ピグだけでの双子も出来てコミュで楽しく遊んで毎日家に帰ってやるのが楽しみだったんですよ![・・・]このお知らせ見た瞬間大泣きですよ!。゚(T^T)゚。

15歳未満の気持・・・・・・・・・・・
わかんないでしょ?
こっちの気持も考えて

人の話はしっかり聞きましょう
って
習わなかったの?

15才以下じゃなくてせめて10才未満にしてよ
きみたちがもし8才でたのしくてアメーバやっててこの知らせ受けたらどう思う?
先生が言ってたよ「人にやられてやな事はひとにするな」って

法と道徳の峻別ですなー。きっとその先生もできてないんだよ。

新手の詐欺ですか・・・・・・・・
こっちの気持考えてからこのようなことをしてください・・・・・・

死ね、さいやくでしょ!子供の気持ちも考えて行ってよね!

全て てめぇらが悪いんだからね〜?ダメーバさぁ〜ん♫

あぁ?わかったらさっさと訂正しろって言ってんの。わかる?
あ〜わかんないか〜低脳だね。
仕方ないよね〜みんなのことちゃんと考えてくれてないんだもんね〜。

もぅ1度幼稚園児からやり直せ。
でも、よっぽどまだ、幼稚園児のほうが、みんなのこと考えられるよ。


次のコメントなんか「大人」を「政府」とか「東電」とかに置き換えて、「子供」を「庶民(=私たち)」れば、左寄りの新聞の投書欄に採用されそうな感じ。安易に「夢」とか言っちゃったりして。

あなた方大人は、子供をいじめている
納得できない。
もっと、よく考えて欲しい。
子供の気持ちを理解してから。
私達の、が全て白紙になった。
よかれと思ってるんですか?
こんなのありえません。
おかしい。
もっと、軽くしてください
こんなに、制限して、何ができるんだ!!
大人達は、何が、おもしろいんだ!!


あと、どうでもいいが子どもたちのユーザ名がスゴい。

✿亜夢㌧✿「あむ」

龍王

Ƹ̵Ӝ̵Ʒۣۜღ๖ۣۜღ,レオンღ๖ۣۜღƸ̵Ӝ̵Ʒ 2

〜☆㌧カイゼル・デ・エンペラーナ3世大魔王㌧★〜

卍†【神桜×闇風】紗奈†卍

DQNネームの影響なのかねぇ。一部表示できていないようだがデコりっぷりもスゴい。

アメーバピグが15歳以下を実質利用禁止:「子どものみなさんを守るため」は本当か?

アメーバピグの公式ブログより。
http://ameblo.jp/pigg-staff/entry2-11190753093.html

[重要なお知らせ]15才以下の方による、アメーバピグ・ピグライフのご利用に関して
いつもアメーバピグをご利用いただき、ありがとうございます。
本日は、ご利用のみなさまに重要なお知らせがございます。


青少年のみなさまが安心安全にアメーバピグをお楽しみいただけるよう、
2012年4月24日以降、15才以下の方を対象として、
ピグの一部機能に利用制限を設けることになりました

今まで、サービスをお楽しみいただいていた15歳以下の方をはじめ、
多くのみなさまにご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳ございませんが、
青少年のみなさまを守るために必要な対策となりますので、
ご理解とご協力をお願いいたします。


なお、15才以下の方を対象として、
利用が制限される機能は下記の通りとなります。

                                                                                                                                                        • -

【利用制限される機能】

▼パソコン版アメーバピグ
・全エリア(つり、カジノ含む全てのエリア)へのおでかけ
・ピグともおよび、他のピグのお部屋への入室
・自分のお部屋へのピグとも、他のピグの入室
・同じ場所に行く機能 (ピグともなど、他のピグと同じ場所に移動する機能)
・ピグとも申請
・ピグとも検索
・ギフトの送信、受信
・コミュニティ
・お友達招待
・お部屋のきたよ機能
・グッピグ
[・・・]

cnetの記事も。

アメーバピグが15歳以下のコミュニケーションを禁止へ--事件多発で
http://japan.cnet.com/news/service/35015100/


アメーバ(コメントによると「ダメーバ」)が15歳以下のピグ上での行動を制限するという発表をしました。これに15歳以下の子どもたちが怒りのコメントをつけて(2万以上!)ブログが炎上状態になっています。そりゃ課金してたりした人が怒るのは当然でしょうね。このアメーバのやり方は問題があるかもしれません。

なんで、何もしてなくてただアメーバを楽しんでる人たちまで、厳しくされなきゃいけないんですか?

気持ちは分かります。
アメーバが厳しくする理由として「青少年のみなさまを守るため」と言っていますが、これは本当でしょうか?全部ウソとは言えず、少しは本当というところでしょう。なぜかというと

子どもは法律で行動を制限されることで守られている

からです。これは子どもだけでなくボケたお年寄りや知的障害者なども同じです。つまりアメーバは子どもを守る法律のせいで今回の制限をした方がトクだと考えたのでしょう。アメーバだってこんな制限したらユーザが減るってのは当然分かってますよ。ユーザが減ったとしてもトクだと考えたはずです。


トクかどうかは後で考えるとして、まず、なぜ行動を制限すると守ることになるのでしょうか。例えば、次のような例を考えてみましょう。
半分くらいボケたおばあちゃんが一人暮らししていたとします。そこにツボを売りつける業者とかリフォーム詐欺(必要のない家の改造をやっておカネをだまし取ること)する業者とかが来て、おばあちゃんがダマされてツボを買っちゃったりリフォームする契約をしちゃったとします。このとき「おばあちゃんはボケちゃってるんだから、そこにつけこんでカネを取ろうなんてヒドい!」と考えて、業者からカネを取り戻してあげる法律を作るとします。これはおばあちゃんを守ることになります。でも同時におばあちゃんが本当に必要な物を買おうとしても、業者は売ってくれなくなるかもしれません。なぜでしょう。業者は「これをおばあちゃんに売っても後で家族に文句つけられて、カネ返せって言われたら返さないといけないんだよな。だったら売るのは止めよう」と考えるためです。これはおばあちゃんにとっては行動が制限されることです。欲しい物が買えないのだから。
同じことは知的障害者についてもあてはまります。


日本の法律は例外はあるけど基本的に業者からカネを取り戻してあげる法律になっています。よってボケたおばあちゃんの行動は制限されることになります。子どもも同じようになっています。なので行動が制限されるのがイヤなら法律をなくせばいいですが、するとダマされても文句は言えないということになります。どっちがいいかを大人が考えて「守る方がいいだろう」と法律を決めたということです。


次にコメント欄の意見を見てみましょう。

責任は自分達(ピグをやってる15歳以下)で責任取らせばいいじゃん。ナノになんで私達をこんな思いしなきゃいけないんですか?

犯罪にまきこまれるとか自己責任やし。
まきこまれた人も悪い。

というコメントがありますが、それじゃダメなのは法律が「子どもに責任をとらせない」と決めているからです。イヤなら法律を変えないといけないということです。

特定の年齢層だけを制限するのは「差別的な扱いとして憲法14条違反」

というコメントもありますが、差別ではなく守るために区別しているので憲法違反なわけないです。憲法違反だなんていったら裁判官に笑われるでしょう。

何が青少年保護だ。意味分かんないし。なにが安心安全なの〜?悪いのは全部15未満なのかよ。なに善人ぶってんのww悪人やんwww( ´艸`)ブッフw考えた人はちゃんとうちらの気持ちも考えてるんですか〜?

残念ながら「気持ちを考える」とかそういうのは関係ないんですね。こういうコメントするような子どもは「行動を制限するしかないな」ってことになるわけです。


さて、アメーバはこのような法律になっているので後々面倒になるのがイヤで今回の制限をしたのではないかと分かりました。これに対し次のような意見があります。

サブピグが作れるから意味ないしwwwww
馬鹿じゃねぇのwwwwww

もし15歳以下を制限しているのにユーザがウソをついて15歳以上でピグを作って遊んで誰かにダマされたとしても、アメーバは「いや、ウソをついていたその子が悪いんです」と言えるわけです。だからアメーバは15歳以下の制限をトクと考えたのでしょう。次の大人と思われるコメントが正しいでしょう。

そこで事件がおきても、サイバーエージェントは「登録時に16歳以上としていた。それを判定する機能は現在、ネット上にはないのでわが社には責任がない。」と社会に言い訳ができるんだよ。


このアメーバの考え方を見ても分かるように、子どもの行動を制限するルールは何でも子どもを守ることになるとはかぎりません。なので子どもたちは自分で「このルールはほんとうに子どものためになるか」を自分の頭で考えるといいと思います。答えが「ならない」なら「このルールをなくしても大丈夫か」「代わりにどんなルールにすればいいか」を自分の頭で考えるといいと思います。大人を説得できればルールを変えられるかもしれませんし、自分たちが大人になったときにはルールを作れる立場(法律を作るための選挙ができるし、ピグの運営もルールを作っています)になれるのですから。逆にこういう問題を自分の頭で考えず「死ね!ダメーバ!」と文句を言うだけではいつまでたってもルールを変えることはできないでしょう。実際に今の日本の大人の多くはいつまでたってもルールを変えることができなかったダメな人たちなわけです。そうならないようにしてほしいです。


参考までに上に言っている法律ってどれなのか示しておきます。民法という法律です。

(未成年者の法律行為)
第五条  未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない。ただし、単に権利を得、又は義務を免れる法律行為については、この限りでない。
2  前項の規定に反する法律行為は、取り消すことができる。
[・・・]

福島の原発労働者には2種類いる:地元出身者グループのムラ社会と孤立した都市のプレカリアート

はてなブックマーク経由で知った。

原発収束作業の現場から ある運動家の報告
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-54.html


ルポライター福島原発で作業に従事している労働運動の活動家(大西氏)にインタビューした記事。

現場の生々しい情報が豊富。インタビューなので、もちろん一個人の主観に基づくものだが、考える材料としては必読だろう。

私としてはいつもの近代の問題を考えてしまった。日本がダメな原因が原発作業の現場にもよく表れていると感じた。今回はどう表れているかを論述してみたい。本ブログでは何度も繰り返しているが、まず近代の問題を説明するところから。

1.日本の近代の問題とは何か?

日本は前近代社会(ムラ社会)から近代社会(自由主義・民主主義・資本主義)になり損ねたという問題。
製造業への産業構造転換、農村から都市への労働力の供給、冷戦構造などが重なって日本は運よく高度成長を達成したが、高度成長の終了後(後期近代、脱工業化時代、ポスト産業化時代)は"近代社会なり損ね問題"が露呈してきた。この原発労働者の現場にもその問題が表れている。どう表れているかを以下で論述してみたい。

2.二種類の原発労働者

このインタビューによれば原発作業員には2種類いるという。第1のグループは原発の立地周辺の地元出身者グループ。第2のグループは都会で集められてくる若者グループ


第1グループの地元出身者たちは原発作業員だけでなく東電社員にもなっているという。同じ高校の同級生でクラスの秀才が東電に入り福島原発で現場社員をやっており、クラスの落ちこぼれが作業員をやっている、みたいに。互いに知り合いでムラ社会のような共同体を形成しているという。

―― 先ほども少し出ましたが、収束作業に携わっている人たちはどういう人ですか?

大西: 原発労働者の出身は、ほとんどが原発立地周辺の市町村です。いまも収束作業をやっているのは、泊、福島、柏崎、福井、浜岡などの人たちです。
 僕の今の実感としては、8〜9割ぐらいかなと思うくらい。

大西: 現場にいて感じるのは、現場の労働者が、どの会社にいようと、東電であろうと、みんな顔見知りなのです。
 小学校が一緒、中学校や高校が一緒、町が一緒という形で、みんなそこに住んでいる住民。だから、「あいつ同級生、あいつ後輩」という感じです。
 東電についても同じです。地元採用枠というのがあって、一生、本社に出ることはなく、出世とは一切関係なく、地元の原発を動かしながら一生を終えるために採用される人です。
[・・・]
 だから、現場では、同じ東電でも、地元採用の東電社員にたいする視線と、東京にいて指令を下すだけの東電社員にたいする視線は違います。

大西: [・・・]
 東電から元請けに発注し、その元請の労働者クラスが、自分の同級生だったりするというムラ社会です。そのようなムラ社会の中に、労働運動をもちこむことの難しさがあります。

なぜ難しいのか。労働運動が基礎とする労働法はもちろん近代法なので、ムラ社会の掟とは相容れないということ。


第2グループの都会の若者は近年プレカリアートと呼ばれるような人たちだ。彼らは原子化した個人で互いのつながりはない。地元出身者グループのような情報網もない、全国の原発を回って作業経験を積んでいるわけでもない。よって「実際の原発収束作業とは何か?」「どんなリスクがあるのか?」などといった情報をもたず何も分からないまま福島に派遣され、雑巾がけなどのもっとも下っ端な作業を行っているという。

―― アトックス[大西氏が批判する人材派遣会社]に雇われている人たちは都市の若年層ですか?

大西: そうですね。一番若いです。ほぼ全員二十歳代
 現代の縮図みたいです。
 地元の人はほとんどいない。
 現場でも、アトックスの人だけ孤立してますね。かわいそうですよ。
 しかも、他の下請けに行ったら、しばらくいればある程度の技術なりが身につくでしょうけど、アトックスにいたら技術も身につかないですから。何年やってもふき掃除、何年やってもごみ片付けです。

―― 原発立地周辺の人以外だとどういう人たちですか?
[・・・]
「危険だ。危険だ」と言われながら、その危険がどういうものかという知識を持っていない人、知らせられていない人たちです。
 3・11以降、1F〔福島第一原発〕を中心に、そういう新しい層が、危険も知らないで、飛び込んで来ています。
 1Fの収束・廃炉の作業には、これから、数十万人、百万人単位の人が必要になります。そのとき、確実に言えるのは、新たな原発労働者の層は、プレカリアートといわれている人びと、貧困に陥った若年労働者になるでしょう。

いやぁ、大西氏の左翼的な立場を割り引いても、この国の未来の無さを感じずにはいられない。

3.二種類の原発労働者が表す近代の問題

この二つのグループは前近代(地元出身者)と近代になり損ねた現在(若者労働者)の日本をよく表している。
地元出身者たちはムラ社会を作り、対内的には相互監視・制裁といった抑圧的な共同体になっている。このインタビューでも、原発労働者に労働契約などなく人間関係で仕事をしており報酬の中抜きが横行し、中抜きする側とされる側で"刺したり刺されたり"の暴力沙汰が日常茶飯事だという発言がある。これはまさに前近代的な問題の表れ方だ。同時にムラ社会対外的、つまり対東電や対元請け(日立・東芝三菱重工など)では利益集団として原発作業員の利益を主張してくれるという心強い味方でもある。


一方、都市で集められてくる若者たちはそのような利益集団を作っていない。各人が孤立している。彼らは対人材派遣会社(業務請負会社)で圧倒的な情報格差(情報の非対称性)の下に置かれ、その格差につけこまれ、何も知らずに原発労働者になっているという。
なぜこんなことになってしまうのか。それは労働法などが<自分の頭でものを考えられる>近代的個人を前提に作られているのに対し、実際の労働者は全然違うからだろう。つまり近代になり損ねた日本ではタテマエの近代(雇用契約)とホンネの前近代(労働者)が乖離している。その乖離を利用して人材派遣会社は鞘取りしてカネを稼いでいる。こんなニセ近代(若者グループ)なら前近代(地元出身者)の方がまだマシとすら思える。
近代法の一つである労働法はこのような使用者と労働者の構造的格差を是正するための法だが、労働契約すらない福島原発の現状では無意味だろう。
まずはホンネの前近代をいかに当たり前の近代に近づけるかが必要だと思う。例えば、当たり前の労働法が当たり前に適用されることだ。この当たり前ができないのに前近代を捨ててしまったのが根本的な問題ではないか。かといって前近代に戻れるわけもなく近代にならざるを得ない。

4.脱原発運動批判

このインタビューには都会で脱原発を主張している人たちへの批判という面もあるので触れておきたい。

大西: 収束とか廃炉とかの作業を、原発労働者がやっているという感覚を[脱原発]運動の側が持っていない、身近なものとして感じていないという気がします。
 「廃炉にしろ」と、東京の運動が盛り上がっているんですけど、語弊を恐れずいえば、特定の原発労働者、8万人弱の原発労働者に、「死ね、死ね」って言っているのと同じなんですよね
[・・・]
1つは、原発労働に従事するからには、被ばくするわけだから、「健康の問題について、一生、見ます。もし何かあったときは補償もします。賃金も高遇します」という風にするべきです。もちろん中抜きはありませんよ。準国家公務員みたいな形で雇ってね

脱原発運動は原発作業員に「死ね」っていうのと同じだなどと言っているが自分にはよく分からない
脱原発の人たち(例えば、自分がいいと思う賠償スキームの提案をしている八田達夫氏やそれに近い寺島実郎氏)は普通は「東電を国有化しろ。賠償後、原発以外は民間に戻して、原発は国に残して廃炉作業を続けろ」と言うので、この大西氏の主張と矛盾しないと思うのだが。なぜそれが「死ね」になるのか。この発言のように大西氏におかしな発言はいくつもある。たいてい左翼的な偏向が生んだ発言のように思えるが。


ところで、政府の仕事とは何か。以前のエントリでもふれたように基本は公共財の提供だ。原発事故の収束は当然公共財なのでこれを提供するのは東電のような民間企業より政府の方が適している。廃炉作業自体はもはやまったく経済合理的な事業ではないのだから。自分は廃炉作業を国が行うという前提での東電国有化だと思っていたが。


ちなみに大西氏の上の発言の続きは以下の通り。原発労働者の徴兵制とかいう全体主義的な話になっている。

もしくは、2つ目は、徴兵制みたいに、「何月何日生まれの何歳以上の人は、ここで1週間、被ばく作業をして下さい」みたいに強制的にやるか。
後者は、すごくいやなんですけど、でも僕が、実際に原発労働をして思ったのは、これは、反原発運動をやっている人は、全員やったほうがいいんじゃないかなということです。

右翼だけでなく左翼も全体主義だよね、という例。全体主義なら市場の方がマシ。これは資本主義対社会主義の実験で世界中が得た知見だろう。人びとを強制するのに権力を使うより市場の力で人びとを動かし、結果として生じた格差を是正する方向に権力を使う方がいい。大西氏のように現場に近すぎると考え方が極端に振れてしまうのだろうか。