ティム・バートン『ビッグフィッシュ』

ティム・バートン『ビッグフィッシュ』(2003) アメリカ ★★★★★

出演:ユアン・マクレガーアルバート・フィニージェシカ・ラングダニー・デビートスティーブ・ブシェーミヘレナ・ボナム・カーター


今までシザーハンズ(1990)がベスト・ティム・バートン・ムービーだったが本作はそれを上回るいい出来だった。以下感想を書くが、完全にネタバレなのでご注意を。あらすじは本エントリ末尾にwikipediaから引用しておいた。

●ティム・バートンの現実に対する違和感

私はティム・バートンの言いたいことはいつも同じだと思っている。それは「『おとぎ話なんて非現実的だ。ヘンだ。作り話じゃないか』ってお前らは言うけど、現実だってヘンじゃないか。バーカ、バーカ」というようなことだ。
この主張をするために、ティム・バートン作品ではいつも現実とおとぎの国が対比され、現実のおかしさが描かれる。もちろんおとぎの国もおかしいのだが。シザーハンズの主人公エドワードは異世界(幽霊屋敷)から普通の世界(50年代アメリカの典型的な郊外の町)に来て、普通の世界の人よりマトモであるが故に現実と馴染めず、異世界に帰っていく。アリス・イン・ワンダーランドのアリスも現実とおとぎの国のどちらが普通でどちらがヘンか分からなくなるし、『スリーピー・ホロウ』の主人公の刑事(ジョニー・デップ)もそうだし、猿の惑星の主人公の宇宙飛行士(マーク・ウォールバーグ)もそうだし、『コープス・ブライド』の主人公の花婿もそうだ。
このような<現実に対する「何かヘンだ」という違和感>がティム・バートン本人の根本にある気がする。つい先日動画でディズニー社で働く若き日のティム・バートンを見てそんな気がした。この違和感をジョニー・デップも共有しており、それを『シザーハンズ』で表現したから、二人は盟友になったのではないだろうか。
また、この現実に対する「何かヘンだ」という違和感がティム・バートンの異形の者への愛情あふれる視線につながっていると思う。『シザーハンズ』の主人公はもちろんのこと、本作でも巨人やシャム双生児や詩を作らない詩人など普通の世界と反りの合わない人がたくさん出てくる。

●現実に対する違和感と近代

この違和感は自覚するかどうかは別にして誰でも持っているものじゃないだろうか。というか、この違和感をもっている人が近代人ということだと思う。神が支配する世界(中世)においては私の存在に違和感はない。自分はミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』(1605、1615)が史上最高の小説のひとつだと信じているが、この小説の素晴らしさはこの<自分と世界との違和感>を素晴らしい方法で描いたことだと思う。しかも、たぶん世界で初めて。『ドン・キホーテ』では自分の信じる「騎士道物語」と現実の間の違和感が繰り返し繰り返し描かれる。主人公ドン・キホーテは自分の信じるおとぎ話の世界に生きている。このおとぎの国がスペインが世界最強国家だった16世紀を表しており、ドン・キホーテ以外の生きる現実がスペインが没落した後の17世紀を表していると言える。この点が示唆しているのは、次のことではないか。近代になり神から独立した人類は自分の物語なくしては生きていけない。しかし物語はあくまで自分の物なので現実とは乖離する。

●現実(息子)と物語(父)の対決

本作においては、主人公とその父がそれぞれ現実とおとぎの国を象徴している。主人公が主役である現在の世界と(若い頃の)父ユアン・マクレガーが主役であるおとぎの国だ。主人公はジャーナリストであり、まさに現実を象徴するのにピッタリの職業だ。息子は現実に価値を置き、ホラ話しかしない父と結婚式をキッカケに仲が悪くなる。
息子は父の危篤を知り、実家に帰り、死ぬ前に父と話そうとするがケンカになってしまう。息子は父を「サンタクロースかイースターバニーのようだ」と言い、「父のホラ話をずっと信じていた自分が恥ずかしい」と言う。決定的なのは次のやりとり。息子「本当の話をしてくれ!」父「全部本当だ!本当だと思えないなら、お前が間違っている!」。


ここまでの話は本作は息子と父が象徴する現実とおとぎの国の対立と(その和解)がテーマで、その背景には監督の現実に対する違和感があり、その違和感はドン・キホーテ以来、近代人なら誰もが抱いているはずだという話であった。

●物語の勝利と物語ることの必要性

さて、次は現実とおとぎの国の対決の行方だ。本作では息子が死の間際に父の言っていること(「全部本当だ!」)を理解し、おとぎの国の勝利に終わっている。なぜおとぎの国が勝つのか?(一般的に)現実には意味がないからだろう。この点はアルベール・カミュ『異邦人』(読書メモ参照)によく表されている。
よって意味のない現実と対峙し続けるのは多くの人にとって難しい。だから現実と乖離すると分かっていても、人はどうしても物語を持ち出し現実に意味を与えるのだろう。だから物語は勝つ。物語なしで生きていける人間は本当にいるのだろうか?


本作の父は物語を語り続け、息子はそれを拒否し続けるが、死の間際になってやっと息子は物語の必要性を理解する。そして父は死後、物語となって息子から孫へと語り継がれる。息子も物語る(=現実に意味を与える)ことの重要性を認めた。そして父が生涯自分の人生を物語ることで人生に意味を与え続けてきたと理解しただろう。息子は父の生前は父が物語ることによって現実を茶化し現実から逃げているように考えていた(「本当の話をしてくれ!」)。しかし、実はこの物語る行為こそが現実の無意味さと闘うことだと理解したのではないだろうか。嘘であっても現実と乖離しても物語ることが必要だと。


『異邦人』の主人公ムルソーは世界の無意味さに打ちのめされ、自ら物語ることはなかった。ここでは述べないが、私はこの態度がアラブ人殺し・死刑宣告へとつながっていると考える。一方、自ら物語る人物を描いているのが江川達也東京大学物語だ。このマンガでは主人公村上直樹は物語を与えられる人物として描かれ、一方村上の恋人水野遥は自ら物語を作る人物として対照的に描かれている(以前のエントリ参照)。村上は自分を現実的(東大→エリート官僚)と考え、水野を空想的と見下していたが、この関係が後半で逆転し、村上は水野から教えられ、赦されるという結末になっている。「自ら物語を作れる人」が「自分を現実的だとみなしているが実は与えられた意味にすがっている人」に勝利するのだ。
本作でもディナーの食卓を囲んで息子が「妻の撮った写真が『ニューズウィーク』に載るんだ。スゴイでしょ」と父に言うシーンがある。それを父はガン無視して、息子の妻相手に物語を始めようとする。このシーンは上記の点を表すためのシーンだと考えられる。『ニューズウィーク』に写真が載ることは現実においてスゴイことなのか?という疑問。
また、この食卓のシーンでは父のコンゴに関するホラ話が、妻が実際にコンゴに行ったことがあったため、嘘とバレてしまい、息子が父に勝ったつもりになるというシーンでもある。ここでは一瞬だけ現実が物語に勝ったように見えた。

●父=物語(ホラ話)=ビッグ・フィッシュと「生と死」

父のホラ話でタイトルにもなっている「大きな魚」は「生と死」を象徴している。息子が生まれた日に父が捕まえたという話だし、「大きな魚」は息子の物語る父が死ぬラストシーンで登場する。父が死に「大きな魚」のいる川に流されるのだ。この「大きな魚」は同時に物語を象徴している。英語でホラ話は"fish story"というそうだ。タイトルの"big fish"は大ボラ話とも理解できる。父=物語(ホラ話)=ビッグ・フィッシュという関係になっている。その父が死んで、物語となって息子・孫という生へ語り継がれていくのだ。
なお、父が川に流される直前に口から金の指輪を出し母に手渡す。この指輪は父がホラ話の中で「大きな魚」を釣る餌にしたものだ。この場面も父=ビッグ・フィッシュ説を裏付ける。
現実(世界)とおとぎの国という観点で見ると、「死」は現実の中の現実といえる。死ほど世界(物理的現実)らしいものはそうないだろう。死によってその人(の人生)は世界においては無意味になる。しかし、父のように死後も物語として人の間(社会)に"生きる"ことができる。「自分が死んだ後も子孫たちに語られると思えば安らかに死ねる」というのは常識的な考え方だろう。「死者を弔うことは死者について語ることである」ともいえる。
以上のように物語ることと生死というテーマも描かれている。


意味のない現実(=意味のない人生)に意味を与えるベストな方法が家族・友人など人生で出会った人たちを物語るということなのだろう。家族・友人を物語ることが自分が物語になることであり、それが「死」という最強の現実に対処する方法なのではないか。
本作のラストシーンの父の葬儀の場面で、巨人や詩人やシャム双生児らみんな楽しそうに語り合っているが、会話の音声はない。会話の内容はもちろん死んだ父の物語なのだろう。
また、この葬儀のシーンは冒頭で述べた「おとぎ話ほどではないがやっぱり現実もヘン」という主張に繋がっている。巨人が父のホラ話よりは小さいがやはり大きい、ホラ話のように双生児ではないがベトナム人の双子がいる、といった形でちゃんとヘンさのバランスが取られていて素晴らしい。

●ホラ話=ティム・バートン映画

「ホラ話」(おとぎ話)は『ビッグ・フィッシュ』を含めティム・バートン映画でもある。ここでは、父=物語(ホラ話)=ティム・バートン映画という関係と息子=現実=(おとぎ話を理解しない)観客という関係が対置されていると思う。ここで冒頭のティム・バートンがおとぎ話を理解しない観客に映画を通じていつも言っている「『おとぎ話なんて非現実的だ。ヘンだ。作り話じゃないか』ってお前らは言うけど、現実だってヘンじゃないか。バーカ、バーカ」というセリフが聴こえてくる。「お前らは本当に現実を生きれるなんて思ってるのか?人間は物語の中でしか生きられないぞ」と。逆にティム・バートン映画のファンである(私のような)おとぎ話好きな観客はこの映画を見ることで、父の葬儀に参列し、ブシェーミやデビートと父の物語を楽しく語り合うことができる。実際には一緒に映画を見た家族・恋人・友人と映画館を出た後、語り合うことができる。「生と死」に関連付けて言えば、ファンが作品(映画)について語ることで作者(ティム・バートン)は死後もファンの間(社会)に生き続けるという、よくある話になる。

●現在の日本で物語る難しさ

ムルソーにならずに、本作の父のようになるには「自分で物語を作る」しかないのだろうか。これは全く難しい話だ。現在の日本の環境で本作の父のように物語ることができるだろうか?巨人やサーカスや森の中の幻の町(スペクター)は言うまでもなく、婚約者を奪うための男同士のケンカですら、現在の日本にどれくらいあるだろうか。詩人(スティーブ・ブシェーミ)やサーカスの団長(ダニー・デビート)そしてもちろん父のような登場人物みたいな人は一体どれくらいいるだろうか。もちろん今の日本でも愛する家族や友人に恵まれて生活している人も多いだろう。しかし、近年の「若者の恋愛離れ」、未婚化・晩婚化、離婚率の上昇などを見るとこのような恵まれた生活は難しくなっているように思う。


マックス・ウェーバーの言うように近代とは社会システムの合理化の過程といえる。現在の日本でもシステムにあわせるように経済合理性に基づき行動する経済人(ホモ・エコノミクス)が増えているのではないか。物語も例外ではなく商品として経済合理性に基づき製造され消費されている。物語は、本作の父のホラ話のように語り継がれなければならず、過去から現在、将来へとつながる経時的なものだ。一方、消費は「その時」という瞬間的なものだ。よって物語を消費というのは本来矛盾していると思われる。
物語はキリスト教マルクス主義が滅びて以降、全世界的に供給不足だろうが、現在の日本でも圧倒的な需要超過だと思われる。この<今の日本の生きづらさの原因は物語の供給不足>というのは本ブログのテーマであり、本ブログで今まで繰り返し論じてきたものである。

●その他の興味深いシーン

他にも本作では父と母の関係も素晴らしく描かれている。ある種の理想の夫婦像だ。父の母に対する思い込み(物語)の強さと母がそれに応え(プロポーズを受け入れ)父のホラ話(物語)に付き合う態度が素晴らしい。父と母が服を着たままバスタブに入るシーンがあるが、父の死のシーンと共に本作のクライマックスの一つだろう。もちろん映像が美しい。


また"big fish"は「大物、大立者」という意味もあり、英語では"big fish in a little pond"が「井の中の蛙」という意味だそうだ。若い頃の父が家を出るシーンや幻の街に留まろうとして、やはり旅立ち、そして大物になり帰ってくるシーンにはこの当たりの意味が込められているように感じる。
また父と幻の街の娘(ヘレナ・ボナム・カーター)の関係も興味深い。


以上のように非常に多くのことを考えさせられる素晴らしい映画だ。当然の★5つ。

【あらすじ】

身重の妻と暮らすジャーナリストのウィル・ブルーム。彼の父エドワード・ブルームは自らの人生を巧みに語って、聞く人を魅了するのが得意だ。ウィル自身も幼い頃は父の奇想天外な話が好きだったが、年を取るにつれそれが作り話であることに気づき、いつしか父の話を素直に聞けなくなっていた。3年前の自分の結婚式にエドワードが息子ウィルの生まれた日に巨大な魚を釣った話で招待客を楽しませた時、不満が爆発する形でウィルは父に今夜の主役は自分であると訴え、仲違いが生じ、それ以来二人の不和が続いていたのだった。
そんなある日、母から父が病で倒れたと知らせが入る。ウィルは妻と共に実家へと戻る。しかし、病床で相変わらずな話を語り出す父と、本当の父を知りたいと葛藤する息子は理解し合えぬままだった。
はたしてウィルはエドワードの話の中に、父の真実の姿を見出すことができるのだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


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