アルベール・カミュ著、窪田啓作訳『異邦人』

最近<意味と強度>について書いているので(ここここ)、それをよく表現したアルベール・カミュ『異邦人』(1942)を読んだときの読書メモを載せておこうと思う。

以下メモから。

アルベール・カミュ著、窪田啓作訳『異邦人』(1942)新潮社 ★★★★★

最近ニーチェを読んでいるので、ニーチェの影響が強そうなカミュ(1913−1960)を読んでみた。最初の一冊はやはり本書だろうということで。自分が読んだのは新潮文庫版(改版)。読んだ感想はすばらしい出来。文庫100ページ強の短い中に凝縮されているのもよい。これだけ有名な作品なので今まで散々論じられているのだろう。言うまでもないが、自分の読み方ということで以下メモしておく。


まず小説の書き方として、冒頭の「きょう、ママンが死んだ」から始まる、主人公ムルソーの母親の葬儀の描写がすばらしい。太陽の強烈さなど。カミュの生まれ育ったアルジェリアの太陽。


次に<意味と強度><世界と社会>をよく表現している点がすばらしい。<意味>とは主にキリスト教。<強度>とは主に太陽だ。<世界>とはそのままこの世界のすべて。太陽が象徴する。<社会>とは人間社会。キリスト教や裁判が象徴する。ちなみにカミュの学士論文はキリスト教ネオプラトニズムについて。


以下のような記述から、ムルソーは明らかにキリスト教という<意味>を失い<世界の無意味さ>に曝されている人間だと思う。

人生は生きるに値しない、ということは、誰でも知っている(p.117)

神、ひとびとの選び取る生活・・・そんなものに何の意味があろう。(p.125)

私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何ものも意味していない。(p.68)

他にも次のような記述が。
上司からパリへの転勤をすすめられ「実をいうとどちらでも私には同じことだ」(p.44)と答えている。
恋人マリイから私と結婚したいかと訊かれ「それはどっちでもいいことだ」(p.45)と答えている。


ムルソーと対照的に<意味>を信じ、<世界の無意味さ>に曝されずに済んでいる人間として、第一部ではムルソーがレストランで見かける女が描かれる。彼女は新聞のラジオ欄や雑誌に熱心に丸を付ける。それが終ると店を出て「信じがたいほどの速さと確実さで、自分の道を外れもせず、振り向きもせず」(p.47)家に帰る。まさに<意味>を信じている人間だ。


一方、第二部では<意味>としてのキリスト教を信じている判事・司祭が描かれている。

ムルソーは、判事から「なぜアラビア人を撃った二発目の前に間隔があったのか」と問われ、「それは特に意味がない」と答える。判事は法廷で十字架を振り回すほど神(<意味>)を信じている。ムルソーが二発目の前に逡巡してくれていないと<意味>が傷ついてしまうのだろう。判事は叫ぶ。「私の生を無意味にしたいというのですか?」(p.72)と。

死刑執行前に現れる司祭は判事より頑なに<意味>を信じており、より強硬だ。だから最後にはムルソーも怒ってしまう。怒るキッカケも素晴らしい。ムルソーの神への批判に対し、司祭が「あなたの心は盲しいているから、それが分からないのです」(p.124)と答えたことがキッカケだ。なぜムルソーはここでキレたのか。それは、この司祭の反論の仕方が議論(コミュニケーション)を否定することだからだろう。内田樹氏がフェミニストマルクス主義者について指摘していることだ。いわく、どちらも批判されると「だからお前はブルジョワイデオロギーに/男権主義に毒されているから私の正しさが分からないんだ」と反論し、批判を受け付けない。
キレたムルソーは司祭に対し、お前の信念は「髪の毛一本の重さ」もない。俺は何も持ってないが「自信を持っている」と怒鳴る。このキレている場面は特にニーチェっぽい。

検事についても一言。検事はムルソーの心の中には何もないと言い、「この男に見出されるような心の空洞が、社会をものみこみかねない一つの深淵となるようなとき」(p.105)を危惧している。実際、ムルソーのような<世界の無意味さ>の実感は現代人に広まっているだろう。


●なぜ殺人の動機が太陽なのか
ムルソーがアラビア人を殺すときの太陽は母親の葬儀の時の太陽と同じ強烈なものだった。
だから動機は「太陽のせいだ」(p.107)というのが必然性をもってくる。<世界>としての太陽だけが<強度>を与えてくれたのだろう。ムルソーは<社会>の中では<強度>を感じることができなかった。マリイとの恋愛や別荘でのバカンスは一般には<強度>の典型だが。<社会>に対して<強度>を感じることができなかったのがムルソーの不幸の原因だ。<世界の無意味さ>に曝され、かつ<社会>に対して<強度>を感じることができない人間は「異邦人」になって<社会>から<世界>に出るしかない。殺人はまさに<社会>から<世界>へ出る行為だ。ムルソーはアラブ人を殺す瞬間に<社会>の裂け目から<世界>が太陽として垣間見れたのだろう。やはり「太陽のせい」という動機は必然的。
ムルソーの行った殺人もムルソーの受けた死刑も(母の葬儀も)死は<社会>から<世界>への移行だ。法学では<社会>における自然人は死ぬと物(ブツ)になる。


●断罪
内田樹氏が『ためらいの倫理学』で指摘していたように、カミュには裁判(断罪)に対する反感があるようだ。カミュは「自分は一方的に正しく相手は完全に誤っている」という態度を批判している。このような態度はまさにキリスト教徒や裁判官・検事の態度だ。その裁判官・検事が神を騙ってムルソーを断罪するわけだ。
ムルソーらとアラブ人は判事・司祭・検事と異なり、どちらが正しいかなどとは言わない。内田氏によれば、ムルソーらとアラブ人の争いは、カミュが本書執筆後参加した対独レジスタンスとつながっているという。戦争は死で溢れた<世界の無意味さ>の現われだろう。神といった<意味>は通用しない。
また裁判について、カミュは判決の抽象性と執行の具体性には「滑稽な不均衡」があると書いている。これも興味深い。

異邦人 (新潮文庫)

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ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

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